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解説と設計図を見てからのアジカンとのコラボ感想文。


川田十夢の『アジアン・カンフー・ジェネレーションを拡張する方法、その設計図。』を読んでの感想を改めて書くことにした。


個人的なことから書けば。私は何もわからないままでも「たのしむ」ということが本当に苦手らしい。「きれい!」「すごいたのしい」という強烈な空間の肯定だけでは私は駄目なんだということがわかった。

何のことを書いているのかというと。
川田十夢がアジカンとのコラボレーションについての解説と設計図を示してくれた。それらを見て冷や汗が出た。
なぜなら受け止めきれずに取りこぼしていることがたくさんあったからだし、咀嚼出来ていない自覚に由来している。

しかし、私の理解や解釈がなんぼのもんだ?解釈や理解は「たのしい!」や「おもしろい!」「きれい」という強烈な肯定と共感する情動の前にはあまりにも意味がないんじゃないか。解釈おばけになりたくないと思いもする。

常にせめぎ合う。今回は何も細かいことは追わずに感覚でたのしもうと思う。が、大抵その場合後で居心地が悪くなる。「ああ、おもしろかった」と全身でたのしむことがどうやら出来ない。私の没入のスイッチはそこにはない。

ゴッチは「自分らしく誰の真似もせずに楽しんでくれたら俺たちは嬉しいです、どうもありがとう」と言っていたのに。今回アジカンのアルバムを遡ることも深く歌詞を読み返すこともほぼしないで至ってライトな気持ちでイノフェスのライブに向き合った。でもそれだとやっぱり駄目なんだなという気持ちで川田十夢の noteを読んだ。

川田十夢のイノフェスにおけるアジカンとのコラボについての解説と設計図を読んで冷や汗は出るが深いよろこびが湧いた。つまりは、そういうことなんだと思う。川田十夢の解説という地図を片手に解釈おばけにならない程度にゆるく再度アジカンのライブを見ていくことにした。未練を反省し、傷を癒すこの安息日に。

1.新世紀のラブソング
なるほど。天地創造のストーリーそのものの時間が流れている。それは9日に見た時も天地創造のストーリーを描いていることがはっきりとわかったが、感想文でそのことを挟むことはしなかった。そこが自分の中での敗因だったなと思っている。ゴッチのジャーナリスト性のある視点も周知ではあるがこの曲を私は赦しの曲だと受け止めていた。一切合切の人の罪科を雨が包むのだ。神の怒りをかって、水に押し流されても、人は生きてきた。川田十夢の次元をあやつる雨(死ぬほどかっこいい。改めてみるととんでもなくかっこいい。素粒子みたい)が新世紀の雨として降る。罪も愛も溶かし込んだ雨が次元をこえて包むのだ。

しかし川田十夢の細やかな解釈は途轍もなく細やかに人類を読み込んでいる。旧約聖書の読解と「新世紀のラブソング」の解釈をなんの矛盾も感じられないほどに読み込んでいる。「人を作った=都市が現れた」と解釈して、9.11以前のニューヨークを描写した。「朝方のニュースで飛行機がビルに突っ込んで」で、画面上でも飛行機がビルに突っ込む。と描くことが出来るのは川田十夢の感性がなければ無理だと思う。
まさに文明単位のスケール。天地創造の7日間をモチーフとしてそれを映像に完全に落とし込んでいる。凄いことだと改めて思った。鯨も鳩も。現実方向に飛び出してくる鳥は創世記がモチーフなら鳩でなければならない。神の怒りで世界は洪水になり方舟で流れたノアたちが空に放ったのが鳩。オリーブの枝を咥えて帰ってくる。知の陸地があることを示す大事な創世記のモチーフ。人類のこれからが示される。拡張現実的にもやはり鳩だろう。

ただ残念なことにやはりライブで配信画面をみているとカメラワークというのがあって観客としてはすべてを把握はできないんだと改めて知って、尚更川田十夢の解説がありがたいと思った。

2.ロードムービー
大江戸線と毛利庭園。これはさすがに都内在住でないし、六本木ヒルズもイノフェスがあるから行ってるのであって日々馴染みがないものはピンと来ることがないんだなぁと思った。でもイノフェスは六本木ヒルズであるのだしJ-WAVEはけやき坂にスタジオがあるのだし、大事な今ここを結びつけるのに当然の選択。虚実を結びつけるのは地理だ。楽曲に合わせてただARを出したらそれでいいってもんじゃないと観客だからこそ思う。現実とどう紐づけるか。どう天と地をわけるかということだなと川田十夢のnoteを読んで思った。

たしか2018年の台風で中止になったのちのリベンジライブではそもそも六本木に特化した映像を用意していたが会場が変更されたことを反映させ行き先を変更したことを覚えている。いまどこに居るのか。どこから来たのか。観客の存在と紐づけることが出来るか否かで表現の奥行きがかわるということを如実に示していると思う。石片の反重力。「まっかなトマトになっちゃいな」あの頃からそうだった。高寺彰彦さんの功績を思う。そして吉川マッハスペシャルの電車、きれいだ。その電車と石片が現実方向と行き来するというのもいってみれば、場。地理だなと思った。

3.エンパシー
アジカンが主題歌を務めた映画の映像が使われていた。エンパシーというタイトルに私はゴッチの時代に寄せる、人々に寄せる想いを感じていた。ゴッチのMCがとてもよくて。「コンサートひとつとってもどうやって楽しんだらいいのかなって自分が観客になっても戸惑う時代ではありますが、でも今みたいにその場でしかないけど自由に身体動かしたり出来るし、まあみんなで心を開いてやっていけたらいいと思う。みなさん、自分らしく誰の真似もせずに楽しんでくれたら俺たちは嬉しいです、どうもありがとう」と、語っていた。

そしてエンパシー。この人は赦しを、そして愛を歌う人なんだと思った。結局たどり着くのは愛なんだろう。
川田十夢曰く、色んな事情で告知出来ないこともあったらしい商業作品的に。
ロードムービーの時と同じく石片に輪郭線に動きを加えることでARのパターンが増えた、と川田十夢が書いていた。あのピンク色の上昇してゆくカケラも石片だったということか。

4.愛で踵を打ち鳴らせ
AR三兄弟にしか表現できない演出が続いた曲だった。好きか嫌いかで言えばこの演出が一番好きだと言える。件のバレリーナにお相撲さんに、AR三兄弟の三人、空手家、サエポーク、サエノーフ。東京ビエンナーレで存在感を示した彼らがつま先で愛を打ち鳴らしていたし踵で打ち鳴らしてもいた。
彼らがスクリーンと現実方向に飛び出てくるたびにカイロの紫のバラだと思いながらダンスをみた。繰り返しになるがAR三兄弟だから成立する演出。ステージの演出としては掟破り型破りのアーティストの前に出てくるのでアジカンが隠れてしまうのだ。

構造として拮抗した強さがあるから出来ること。いわばアーティスト同士の真摯な表現のもとに作られた世界はどちらの力不足でも成立しないものだ。確固たる世界を持ちながらただただアジカンへのリスペクトがそこにはあった。深い、川田十夢にしかできない解釈の深さとともにそれが表現として空間に解き放たれている。
ARステージというARが付加価値として存在する空間で楽曲を邪魔するような演出が絶対出来る筈がない。拮抗する力のある者同士が表現と表現で会話できたからこその演出。この姿勢はAR三兄弟の最初期から続いている。

古くはスマイレージ。THEATREPRODUCTSのファッションショー。裏方ではなく対等の存在としてコラボレーションしてきた。だから顔をだす。顔を出すことで否定されることもあるだろうし、実際あった。しかし、表現者同士の会話が表現で出来るのならけしておかしなことじゃない。真摯なリスペクトがそこにある。なにせ実績を積み上げてきているのだAR三兄弟。
内容として簡単に言うとAR三兄弟次男が一回振り付けを覚えてその骨格モーション情報をプログラミング的に取得しそれを色んな人に当てはめてステージ上に力士も現れる、AR三兄弟も現れる、バレリーナも現れる。その姿に「ああ、アートだな」と私は感じていた。後にこれはアートとして評価されるだろうと。コラボレーションする相手が添え物であっていいわけがない。

5.リライト
六本木ヒルズのみんな大好き森ビルのかっこよさがよく出ていた。シミュレーション映像だったようだがリアルな六本木ヒルズ全体を川田十夢プロジェクションマッピングするならこうする、といった発想のものだったらしい。ライブを見ながらリアルタイムの六本木ヒルズなのか?と思ってしまった。ロードムービーと同様に2018年に制作したものを再度2021年のコロナ禍の六本木ヒルズとして再開発したという。六本木ヒルズ全体をマッピングした事例はいまだにないらしい。どうだろう、森ビルさん。いつかやりませんか?コロナ禍を生き抜いた証に。お祭りは必要。

ゴッチはリライトに入る前にこう語り出した。SDGsについて出来ることとはなんだと言う自問とジレンマを抱えていると。環境にとって究極的にはバンドをやらない方がよくない?となってしまうと。バンドのグッズを海外で作ることで搾取に繋がる仕事をやっていることを考えると何も出来なくなってしまうと言う気持ちがある、電気とガソリンを一杯使ってツアーをやることについてどうしたらいいのか、と言う気持ちがあると告白していた。コメントを求められても胸張って言えることがない。
しかしそんな悩みがあることをみんなにシェアしていいのかなと言う気持ちになった、ミュージシャンだって悩んでいる、なにが正解かわからない。みんなが日々の暮らしの中で出来ることもわからない。イノベーションって言われてもさ、毎日の生活のどこに繋がってるかわかんない、みたいな。と心情を語る。でも。それを俺たちみんなシェアしていいんじゃないの?どんなことで困ってる、どんなことで悩んでるとか。シェアするっていったら輝かしいアイデアや輝かしい未来をシェアしないといけないとミュージシャンの自分も苦しい。ささやかな悩みとかで繋がってるの、いいなと思う。
そう言う俺たちの悩み、昔は自分の部屋でじっくり抱えてるしかなかったんだけど、そういうのみんなでシェア出来るのはテクノロジーのお陰だったりするから「そんな繋がり方あるんだ」って進歩していくことも怖くないなって今日はそんなことを思いました。とゴッチ。みんなひとりひとりから放たれるエネルギーがこんなにも俺たちの音楽を瑞々しくしてくれることに気がつく。と。

いつでも光は必要。お祭りは必要。古来からお祭りのときには特別なことをした。忘れられぬ存在感をコロナ禍から立ち上がろうとする人々にいつか。

6.Easter/復活祭
復活祭といえばイースターエッグ。生命の源泉であるタマゴの質感にこだわりを見せる川田十夢。
音源と光源。それらと影の表現を組み合わせることで、ARのレイヤーで実存を突き詰めようと閃いた。卵(ざらざらした殻の質感)と回転灯、揺れる電球(重力)と鳥籠(影)と羽(反重力)、蛍光灯とムービングタイポグラフィー。キネクティック・ライティングと業界で呼ばれる現実のコンサートの演出手法があるが、拡張現実でしか実装できない動きを足せばユニークなパターンになるはずだと開発要件に加えた。と。

赤い回転灯が灯る。暗闇のなか陰影を伴った球体、つまりタマゴが赤の長いからAR空間に回転している。転卵だ。そして三つに分裂する鳥籠。暗闇に揺れる電球。白い羽が舞い降り可逆的に二方向に進む反重力。たしかに解説のとおり暗闇の中揺れる電球が重力を、鳥籠が影を、羽が反重力を表している。三つに分裂する鳥籠。白い羽が舞い降りる。

ラジオで川田十夢はこう説明していた。これはARのパターンを全部出そうと思って。7つの演出を考えたんですけどイースターというのはそもそも復活祭ですよね。イースターって卵だし、源泉のイメージ。源といえば音源もそうだし。光源も源(みなもと)という字をかくなぁって。ARってただ出しても浮いちゃうんですよ、現実に対して。なんか現実感のないものになってしまう、光源というものを意識した瞬間に現実と仮想の接続点が曖昧になるんですよね。その光源を意識した質感、現実に出てくるんですけど、卵の表面のざらざらした質感とそれを光源と隣り合わせて卵と回転灯とか電球と鳥籠とかゆらゆら揺れるイメージ、そして蛍光灯を使ったタイポグラフィ。蛍光灯を使った現実のライブの演出は結構あって。それはキネティックライティングと呼ばれるものですね。ピアノ線とかで光源のあるものを上下させたりとか。ドローンとかも一種ですけどね、グラフィカルなものを作る。でも蛍光灯が宙に浮かんでタイポグラフィを作ると言うのは不可能なんですね。物理的に現実的に不可能なものをARで実現させたということでございます。と。

私は表層と象徴を追ってしまう職業病があって、ついそこに焦点を当ててしまう。しかし、それが仇になる時がある。蛍光灯を蛍光灯と認識できなかった。キネティックライティングという言葉を知れてよかった。
ただこのEasterでの川田十夢の表現をみて具体的な言語化は出来なかったが回転灯の示す赤い闇からの復活が何を意味するのか、転卵する様子から空っぽで飾り物のイースターエッグではないことはわかったしそれらのタマゴも鳥籠も電球も視覚情報のはずなのに聴覚情報と相まって触覚として感じられていたから川田十夢の演出が精妙だったんだと思った。

誰と比べるというわけではないし、なにと比べるということではないが表現として頭がいくつも飛び抜けていると思う由縁である。

7.君という花
2003年の発売当時に作られたミュージックビデオを制作したのが豊田利晃であることを知った。そして独特の服装でダンスを踊っているのがマメ山田。印象的なダンスを引用しつつ同世代のアジカンと共通言語であるファミコンからビット絵のようなグラフィックにしたということだった。

アジカン結成25周年、そのことを祝福しての演出であった。そこにはAR三兄弟の12年も表現されていた。当然だ、並び称されて同じ舞台に立つ者同士。どこでこういう運びになったのか示さねばならない。受けた影響を返す。川田十夢はよく口にする。
コラボレーションをするだけで大変なこと。表現を介して出会い、表現を介して会話して認め合いリスペクトする。名だたるアーティストとコラボレーションができることがまずもってすごい。影響を受けた存在と仕事をするというのは影響を受けた存在にまず、認められることから始まるのだし、存在を認められ、コラボレーションをしてその時に初めてその真価が問われるのだ。

もちろん失敗は許されないし、どこまでもそのアーティストを解釈するのか、解釈してどう演出するのか、その演出をアーティスト本人から認めて貰えるのか、その演出がどう響き合うのか。そういう一切合切をひたすら作品で示すのだ。
"この地上という洞窟の壁に映る影を介して、宇宙の普遍的秩序という光源へ至る全作業"のような次元花火と共にアジカンの歴代アルバムをタイポグラフィイにしてオブジェクトを点群情報に変換してAR花火として六本木ヒルズに打ち上げていた。特殊なサーバ経由でプログラミングの制約があるなか、光の表現には難儀したことを川田十夢があかしていた。三男ががんばってくれたことも。そうやってAR三兄弟のこだわりを具現化しているのだろう。

私はAR三兄弟のことを美しいと表現する。それがどのような美しさであるか、川田十夢が短く表してくれていた。下らなさや惨めさと並立して存在する美しさを信じているから。ただ美しいだけのものは嘘っぽい。拡張現実的ではない。 ないものも惨めなものも一切合切を含めて森羅万象を内包させる強度のある美しさだからこそ私を惹きつける。それこそ人間を描くということだ。アジカンの音楽と思想と共に川田十夢がテクノロジーを駆使して描いたのは人間なのだ。音楽ライブ配信、映像テクノロジー的にも露骨な先行事例であると同時に、ARで人間がどんな存在であるのかを常に描いている美しさだと私は思っている。それこそ、君という花である。

私はどうしてもAR三兄弟目線なのでAR三兄弟を中心に感想文を書いてしまう。だが、ミュージシャンの底力。途中どうしてもゴッチを視線で追ってしまうのだ。やはりゴッチかっこいいなと思った。MCを聞いても楽曲を聴いてもそう思った。つまりそう思えるということはAR三兄弟のアジカンを拡張する設計図は、その演出は正しいのだ。

川田十夢の解説とともにこんなに長い感想文を書いてしまった…なんかすっきりはした。解釈お化けにはなってないと思う、妄想はいつも通りですが。ARやテクノロジーが添え物であっていいわけがないと思える理由を読めてよかった。そして感想文は6847文字になった…














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