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「参加型調査(観察)」によるコモンズのデザイン

仕事をしていく上で、「公」「共」「私」という3つの概念を用いた枠組みを、個人的にしばしば用いている。この場合、ファクターは、2つでなく3つであることに意味があると考えている。英語における、public/privateが、日本語では、公共/私(わたくし)と訳され、二項対立のままで取り扱われていること、特に、publicが「公共」と一つにされてしまうことに問題を感じてきた。社会におけるコミュニケーションを考える場合、「公共」は、「公」「共」と2つに分解して考えるべきだ。まず、3つの概念を社会におけるコミュニケーションを構成する原理として、それぞれに説明する。なお、ここでは、個別具体的な現象や事例から離れ、抽象的に単純化して考察をしている。

  • 「公」の原理・・・おおやけ。オープンで誰にでも公平なこと。誰でも入れて自然が豊かな公園のイメージが分かりやすいかも知れない。ここで、お上(お役所=行政)を「公」と同一視する向きがあるが、社会を分析するといった場合に問題が大きい。民主主義の理念上も、行政(お役所)は、民意に基づいた立法に従い、また、状況に応じて常に軌道修正をしながら、市民、民衆の求める公平・平等なサービスを提供するものとされている。市民であれば、公的サービスは、オープンアクセス、平等な利用を可能としなければいけない。誰か特定の人や集団だけが享受できる(私物化可能な)ものであってはならない。また、現代で言えば、その際、市民のアウトカムの最大化を目指すということが重視されるべきであると考えている。そのためには、無謬性と言わず、むしろ朝令暮改も歓迎されるべきだろう。

  • 「共」の原理・・・何かを他者と共(とも)にすること。ある特定の時間、空間をともにし、そこで展開される出来事をともに経験し、また、存在するモノを共用したりすること。ここで、「共」の原理に基づいたコミュニケーションを見る場合、その特徴は、フラットな相互性(「おたがいさま」)に基づく関係性になると考えている(この記事の後半参照)。そこからの派生として、互助、互酬といった概念も出てくるだろう。ポイントは、上下関係ではなくヨコのフラットな関係がベースになっているところにある。自律分散組織、DAOなどの議論にもつながる。さらに、この「共」の原理が対象化される場合、それは、英語では、commons(コモンズ)になると思う。社会学者の大澤真幸氏の概念を使えば、この領域では、「第三者の審級」は歓迎されない。あるいは、意識的に遠ざけられる。

  • 「私」の原理・・・個人的な自由を追求すること、また、その自由が保証されること。それは例えば、私的な所有権の設定に象徴される。自分のモノであれば、自由に取り扱うことができる。そのことを社会的に保証する原理だ。ただし、その際、他者の自由を侵害してはならないという条件がつく。この原理の上では、人間の自由やその結果としての地位や所有などが焦点化される(自由主義における優勝劣敗、自然淘汰。その帰結としてのヒエラルキー など)。なお、自由については、別の記事で書いた。

下図は、この3つの原理を、概念的に一覧化して表現したものである。現在では、ブロックチェーン技術などの最新の技術を応用して、それぞれ効率的にマネジメントされようとしていると見ている。

社会におけるコミュニケーションの3つの構成原理

以上で、社会におけるコミュニケーションを構成する3つの原理を説明した。その上で、本題のコモンズ形成のための考察に入る。

比較的長い間、上記のような枠組みを用いてきたが、最近、この三者には、根源/派生といった関係性があるのではないかと考え始めている。サピエンス全史(ユヴァル・ノア・ハラリ)、Humankind(ルトガー・ブレグマン)などの著作で、近年現れてきている人類史における考察などを見ながら、そのように考えている。

以下は、社会におけるコミュニケーションの原理の(時間的な)展開モデルである。すなわち、もともと「共」の原理が強く働くコミュニケーションが展開されていた社会(社会によって濃淡はあるが)があったが、それが、近代化するにしたがって、また、近代的なテクノロジーをベースとして、「公」の原理、「私」の原理に次第に置き換わってきた、という見方である。

社会におけるコミュニケーションの原理の展開モデル


ここへ来て、「共」の原理は、自分の中では、相互性の原理に深まったと考えている。(原始的あるいは家父長的な共同体のイメージではなく、それぞれの個人が独立性をもって、時に貢献し合いながら、響き合うイメージである。お互いさまではあるが、基本的にはそれぞれが自己実現をお好きにどうぞ・・・という感じか。)

そして、以上のような社会の見方に基づいて、調査・観察を行い、その結果を用いて、「公的」かつ「私的」原理が優勢になった社会システムを、まずもって「見える化」する。そのことで、自律化してしまった社会システムを、観察者の共同的な資源(リソース)として捉え直し(共同主観性)、その認識を「コモンズ」としてはどうか。それにより社会的なコミュニケーションを人間的に再構成していってはどうか、というアイディアを提案したい。社会システムは、定型的なコミュニケーションの連鎖であり、それを対象化、見える化し、その上で、人々の手段として使っていく。時には、その暴走を止めるために意識的な軌道修正を行う(必要に応じた社会システムの見える化と軌道修正(断捨離))。そのようなアプローチを追求していきたいと考えている。そのためには、目的観を持って観察する人たち=仲間が必要である。ここでのポイントは、何かを成そうとする前に(改革、革新、イノベーション・・・)、まず、観察し、その認識を共有しましょうという立場取りである。この点に関しては、こだわっていきたい。

調査・観察に基づくコモンズの形成


なお、こうした認識論的なアプローチは、社会学者の故見田宗介氏の「交響圏(「共同体」ならぬ「交響体」)」の考え方にも響き合うものがあるのではと考えており、これも勉強中である。

(参考)見田宗介氏 4つの社会類型


以上、調査・観察によるコモンズの形成について現在考えていることをまとめてみた。このテーマは、継続して、考察を進めていきたい。



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