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別居以上、離婚未満

「きみが美味そうにビールを飲むのを眺めるのが好きなんだ」
 と、別居中の夫は言った。
 彼は酒がまったく飲めない。
 下戸なんてもんじゃなく、店頭にあるアルコール消毒薬でさえ、量を誤れば腕の内側に赤みがさす。
 だから最初にグラスをかち合わせる際は、わたしが生ビール、彼がノンアルコールビールというのがルーチンだった。
 少し前までは、夫が最初に口に運ぶ液体は、真冬でもアイス烏龍茶だったが、それがノンアルビールに変っただけで、ずいぶんと乾杯の雰囲気が高まるのが面白かったのだけれど、そんな感動も、長い別居期間のあいだに忘れていた。
「ぜんぜん飲めないのに、わたしが酔っぱらうまで付き合ってて楽しいの?」
 わたしが泡がついた唇で訊ねる。
「楽しいよ。特にこんな東南アジアのような雰囲気のダイニングバーで、きみと酒食をともにするのはね」 
 理解できなかった。
 彼は一風、変った人物として社会に受け入れられている。良く言えば個性的というか異能者とでもいうべきか──その経済や社会に貢献するとんがった能力は、必ずしも家族にとって居心地の良いものではない。

「食事とか、どうしてんの?」
 彼は勝手に家を出たのだから心配してやる義理はない──そんな思いを振り払うかのようにグラスを唇へ運ぶ。案の定、ビールの味がしなかった。
「まあ、なんとかね。基本はごはんを炊いているけど、おかずはコンビニもあるし、スーパーからなんでも調達できる。それも面倒なら、松屋や吉野家もあるし。洗濯だって歩いて数分のところにコインランドリーがある」
 便利な時代だと思う。
 形式的に生きていくには満ち足りている。だけど人間ってそれだけじゃない。
「寂しくないの?」
 言ってから悔いていた。帰って来いというサインにとられやしまいか── 

 杞憂だった。夫はいつもは即答するのに、この時ばかりは言葉より先にため息が聞こえた。
「寂しいさ、とっても。そんなこと、きみがいちばん知っていると思っていたけどね」
 きみがいちばん知っている。
 たしかそうだ。わたしは彼のことなら何でも知っている。過去の恋愛、親族との確執、どうしても譲れない心の領域。そのなかのいくつかは、彼ができればひた隠しにしたかった内容も含まれている。それらはすべて、わたしが根掘り葉掘り聞き出したものだ。

 彼は戦わなくなった。
 喧嘩になりそうな時、わたしを宥めようと笑顔と言葉を選ぶ。
 だけどわたしは、たまった毒ガスが抜けてしまうまで、言葉の刃を投げ続けずにはおれない。
 それでも根気よく、わたしを説得しようとする。
 だけど、振り上げた拳の下ろし方がわからない。いや、下ろし方が下手なんだと思う。
 そしていつも夫が頭を下げる。
 自分の方に非があるとわかっていても、わたしの謝罪で夫婦喧嘩が幕引きになったことはない。
 わたしを怒りへと駆り立てているのは理論ではなく感情。
 それが自分の性分だとわかっていても、それが女の性(さが)だと理解していても。
 
 心からきみを愛している
 と、夫は日頃から口にする。
 わたしにだけでなく、他人に対しても臆面もなく言ってしまう。
 それが彼を変人たらしめているところである一方で、裏表がない好ましい側面でもあると許容してはきたのだけれど、公共の電波に乗せて言われたときには、さすがに恥ずかしく、さすがに頭に血が上った。
 活字の場合、とりわけ新聞だったらなお始末が悪い。
 記事を読んだ人は決まって、小学生が同級生のカップルにするような表情ではやし立てる。
 そう、世間はわたしたちを、おしどり夫婦だと思い込んでいる。

「夫婦生活って、地雷だらけのキリングフィールドを行くが如し、ってあんた言ってたよね」
   夫の視線が、揺らぐように逸れていく。
「……俺の言葉じゃないよ。ネットでみかけた誰かの受け売りだったと思うが」
「じゃあさ、サラリーマン川柳のグランプリの、えーと、『耐えてきた、そういうお前に耐えてきた』、ってのを結構気に入っていたよね」
   夫は柔和にわたしを見つめ返すだけだった。
   肯定してしまえばどうなるか、互いにわかっていた。

   夫が家を出て行ったのは昨年の台風の日。
   その日から約1年のあいだ、心にため込んでいた疑問をぶつけてみる。
「別居した理由、はっきり聞いていないんだけど」
    何杯目かの飲み物が運ばれてくる。
    わたしはハイボール、夫はジンジャーエール。
 「きみと最後の喧嘩をしないためだよ」
   つまり、結論がでないよう逃げたってわけね──
   実際に離婚には至っていないし、月に数回は、こうしてハンドルキーパーとして飲み屋に付き合ってもらっている。
    夫の作戦勝ちなのか、わたしが彼を必要としているのか──
   ハイボールが空になるころには、正解なんてどうでもいい気分になっていた。   
  「だったらさ、時々はこうしてわたしに付き合ってよ。最初のデートのときみたいに、カッコつけてお酒飲まなくていいから」
   ふたりで最初に行ったビアホールでの記憶が蘇る。
   その時も、わたしがグラスをあおる様を、したたかに飲んだ(と言ってもグラスに一杯だけど)彼はテーブルに崩れそうになる顔に肩肘ついて眺めていた。

   夫が店員を呼び止めて、ジンジャーエールを注文する。ついでにハイボールのお代わりを追加して、わたしは言った。
「今まで訊かなかったけどさ、あんたってジンジャーエール、よほど好きなのね」
「べつに好きでもないよ」夫は事も無げに言った。「だけど、褐色の飲み物の方が、乾杯の雰囲気が出るだろ?」
 言われてみれば、彼がオーダーするのはノンアルビール、アイス烏龍茶、そしてジンジャーエールの三種類。
「俺、飲めないから申し訳なくてさ。せめて乾杯の雰囲気を盛り上げたかったのさ。美味しそうにビールを飲む君を眺めるのが好きだから」
  そう言って微笑む夫を眺めるのが、わたしも好きだったことに今、気づいた。

 乾杯!

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