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変わりゆくもの、小さな覚悟


只今、大阪出張中につき、感じたことをサラッと。

大阪出身として地元を案内する機会が度々ある。その時のあるあるは「生の関西弁が聞きたい」という要望。これに対して、とりあえず難波・道頓堀あたりの、いわゆるコテコテの大阪らしい場所を散策する流れになる。

そして実際に足を運び、街の喧騒に耳を傾けると思わぬことに気づく。それは、話されている言葉の殆どが海外言語だということ。パッと視界に入る7割ぐらいが外国人といっても過言ではないほどだ。

今に始まったことではないと分かってはいても、改めて、その事実を目の当たりにすると、何だか複雑な気持ちになる。“大阪” ではなく“アジア” と称した方が納得がいく、近くて遠い存在。

それが嫌だ、という単純な感情ではない。そうではないのだけれど、常に変化し続け、過去の姿になっていくものに後ろ髪を引かれるような、キュッと胸を掴まれるような感覚。

もちろん東京も日々刻々と変化している。けれど、ここまで心は動かない、むしろ少し楽しみにさえ思えてしまう。それは、こびり付いたアイデンティティが有るか、無いかの違いだろう。

都内でのドライブ中、勢いで山に行こうと思い立ち、山を探したことがある。結果、最も近い山でも都内からは高速に乗らないと何時間もかかると知り断念した。自然ってそんなに遠い存在だっけ。

以前ラジオに出演した時、放送を聞いた親から「あんたの関西弁は、もうなんか変やで」とコテコテの関西弁で言われた。自覚はなかったが、染まるってそういうことなのかもしれない。

世の中は不可逆なことが常に起り続けている。時代に伴う変化を楽しんでいるつもりだったけれど、いざ当事者になると、見え方は異なる。

覚悟しないといけないな。と、ふと感じたそんな大阪出張。


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