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「分からない」ことへの耐性を作る

よく「丁寧に、きちんと教えましょう」という言葉を聞きます。
教わる側からしたら、とてもありがたいことですし、
先生からしても、丁寧に指導できることで満足感もあったりします。

この「丁寧」や「きちんと」という言葉。
何をどうしたら「丁寧」「きちんと」できていると言えるのか。
どのように評価することで、
それを証明できるのか。

英語を教える側によくあるのが、
先生が英語で話しかけても子どもたちが分からないと
思わず日本語で訳したり、
また英語の文法は日本語を使わないと子どもたちは理解できないから、と
日本語を多用して教えることがあります。

これに対して少し疑問を感じています。

まず、英語で話しかけて分からなかったら、
「どうしたら分かってくれるか?」
というところから
コミュニケーションだと思うのです。

コミュニケーション・ストラテジー
とも言えますが、

・もっと簡単な英語で言い換えられないか?
・ジェスチャーはどうか?
・リラリアがあったらどう?
・場面で理解できる要素はないか?
・絵を描くか?
・文字を書くか?

などなど、工夫する試みこそがコミュニケーションだと思うのです。
これは、伝え手だけの努力だけでなく、
受け手も「どうしたら分かるか」「わかりたい」という積極的に関わろうとする姿勢も必要です。

英語の文法においても、
学校で日本語使って英語を教わっても、
結局よく分からないことってあると思います。

それに一言一句、全てを日本語を介して理解しようとしても、
言語が違う以上、難しいこともあります。

何が言いたいか、というと、

・きちんと‘’完璧”に理解しないのは悪
・ちょっと分からないだけでパニック
・丁寧に細かく教えてくれないと不安

といったように、できない部分ばかりにフォーカスが当たり、
細かいことが異様に気になってしまったり、
‘’ちゃんと教えてくれないと出来ない”
というビリーフができてしまう、
そこが気になるのです。

「だいたいこんな感じかな?」
「こういうことが言いたいのかな?」
そういう”余白”のようなものが必要なのではないか?

きっちりかっちり丁寧に指導すればするほど、
「きちんと理解しないと不安」を作り出すのではないか?

この不安に対し
「分からないことへの耐性」が学習にとても必要なことなのではないかと思うのです。

丁寧に教えることが悪いとは言いませんが、
それが子どもたちにとってそれが「正解」「善」ともいえないのでは、という提言ですw

「そんな感じ」
「たぶんこういうこと」

そんな曖昧さをOKにすることで、
主体的に学ぶ姿勢が作られると思います。

丁寧、きちんと からくる
完璧主義。

完璧主義ちゃんにサヨナラすることで、

よく分からないけどもう少し考えてみよう
チャレンジしてみよう
行動してみよう

というアクティブさが育つと思います。

そんな思いから、子どもの英語教室では
オールイングリッシュのレッスンを
推奨しています😊




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