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匿名の貴方へのお返事に代えて。

ある日、勤務先のNPOにわたし宛の手紙が届いていた。驚くことに、その人はどうやらわたしのnoteを見てお手紙をしたためてくれたというのだ。

わたしが送り主に対して陰性感情を持っているかもしれないと思っていることが文章から読み取れた。

「わたしの古い知り合いだけど臆病なので名前は書けない」と書いてくれていた。本当に臆病なら、そんな風にわたしが思っているかもしれないのに、お手紙なんて出せないよ。

どなたか分からなけれど、勇気を出してお手紙を送ってくれてありがとう。時間をかけて思いを言葉にしてくれてありがとう。言葉のひとつひとつから聡明さを感じました。

その人が読んでくれているかわからないけど、貴方にお返事を出せる場所がここしかないので。どうか届くといいな。

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思いもよらぬ人たちから「note読んでます」と言われたり、お手紙をいただいたりすることが増えました。

機会はそう多くないものの、公衆の面前に出ることもある仕事をしているので、文字でも声でも言葉を発信する時にはどんなシチュエーションの人を傷つけてしまうかを考えます。すべての人を心地よくできる100点満点の魔法みたいな言葉なんて存在しないから。

このnoteを読んで嫌な気持ちになったことがある人もきっといることだと思います。できるだけ傷つけないように言葉は選ぶけれど、確実に誰かをわたしは傷つけているのです。

誰かを傷つけることになるとわかっていても、この言葉を外に向けて今発信したほうがいいかどうか。それがわたしが言葉やテーマを選ぶときの大きな判断材料です。そしてその「誰か」が特定の人であろう時は、より慎重に言葉を選ぶようにしています。

誰かを勇気づけたり、心の支えになる言葉を紡いでいきたいと思って、半年くらい前にnoteをはじめました。実際、そんな声が思っていたより多く届くようになりました。それ自体はすごく嬉しいし、ありがたいことだと思っています。

言葉は自分の心の写し鏡。慢心はしないようにしたいのです。こういうことを書くと「美辞麗句を並べて」と眉をひそめる方もいることでしょう。わたしが言いたいのは、つまりこういうことです。わたしの感性はわたしだけのものだから、受け取り方が違うのは当然です。

それでも書くと決めたんです。言葉を綴ることから距離を取っていた時期のわたしは潤いを失っていました。精神的に元気だったとはとても言えません。

ままならなくてもとりあえず言葉にして、何度も自分の感情と向き合って、その文章を外に出せるよう、気持ちを整えていく。そのプロセスがわたし自身をたくましくさせ、言葉にもしっかりと命が吹き込まれるのです。

言葉を社会に産み落とすという行為が、いまとても簡単にできる時代です。憲法第21条にて言論の自由は保障されているし、意志を持った言葉をどんどん発信をしていくことは悪いことではないと思っています。

それに加え、コロナとの戦いは長期戦になりそうです。これからも非対面・非接触の機会は増えていくのだろうと思います。様々な立場の人が言葉を世に送り出す機会も増加していくでしょう。

言葉は時に一人歩きをします。尾ひれがついて話が膨らむことだってあります。

だからこそ、言葉を発信することによって確実に誰かをわたしたちは傷つけていることを忘れてはいけないのです。人間だから言葉の選び方なんて間違うし、人を傷つけてしまうのは当たり前です。さらに立場ある人ならば、どれだけ良いことを発信されていたとしても、言葉を発するだけで思いもよらぬ受け取り方をされてしまいます。

それでも、誰も発信することを窮屈に思ったり躊躇ったりする必要なんてないのです。大事なのは傷つけないことではなく、傷つけている自覚を持つことなんだと思っています。

その覚悟を持ち、誰かを傷つけてしまったのなら、誠意を持って向き合うこと。それが今の時代に必要なことなんじゃないかな。

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この文章は実は少し前に書いていたのですが、誹謗中傷にまつわる話が世間を賑わせていることを受けて、今日公開しようと思いました。

言葉はとても鋭利なナイフにも相手を包むブランケットにも変容することへの自戒を込めて。



普段の自分ならしないことに、サポートの費用は使いたいと思います。新しい選択肢があると、人生に大きな余白が生まれる気がします。