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ホームレス問題にまつわるエトセトラ

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生活困窮者支援の現場にいるわたしが感じたことをまとめたマガジン
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「ホームレスになった時、誰とも話したくなかった」という言葉を紐解く。

先日、ある新聞社の取材をひとりの人が引き受けてくれた。わたしが働いているホームレス状態の人たちのサポートを行っているHomedoorで、数年前に関わっていた人だ。2年前から、セキュリティ関係の会社で日夜問わず働いていて、久しぶりに会うと恰幅が良くなっていた。 ニコニコと取材に応じてくれていたなかで、一度だけその人が語気をぐっと強めた。 「ホームレスになった時はな、誰とも話したくなかった」 なんだか、その言葉を忘れることができなかった。1時間強の取材の中で、同席していたわ

「死ぬ」か「相談する」かしか、自分には選択肢がないって言われた時の衝撃を、生涯忘れることができないと思う。

日本広しといえども、ホームレス支援を仕事にしている人はあまり多くはないと思います。小さなNPO職員のストーリーを今日はお届けします。 *** わたしは12歳の時に、ひょんなご縁で大阪市西成区にいるホームレスのおっちゃんたちにおにぎりを配ることになりました。近所の公園で見かけたことはあっても、その時まで話したことなんてなくて。 おにぎりを待つ行列は、ざっと300人。人気商品の購入待ちに、勝るとも劣らない大行列。度肝を抜かれました。「え、こんなに人がいるの?」と驚いたことを

人の死を前にしたら、ひとりで生きていくことが怖くなった。

その訃報は突然だった、あまりにも。 2020年1月に夜回りを行っている最中、仕事用の携帯が震えた。 「○○さんが路上で亡くなっていた。」 大都会の真ん中で、わたしは言葉を失った。聞き慣れたスタッフの声がどこか遠のくのを感じた。 これまでも関わってきた人が亡くなったという報告を受けることはあった。家や病院でというケースばかりだった。路上で亡くなったそうだと後日人から報告を受けることもしばしばあったけれど、わたしたちの活動中に亡き骸を見つけたことは今回が初めてだった。

都会の空洞で身を隠すように寝ていた女性の名前を、わたしはまだ知らない。

昨日の夜、忘れられない出来事が起きました。一晩経っても脳裏に焼きついた光景がなんども思い出されてしまうのです。ひとりでは抱えきれないから言葉にさせてください。 わたしはホームレス状態の人のサポートをするNPOで働いています。月1回〜2回ほど夜にホームレスの人たちのもとを訪ねて回る「夜回り」という活動を行っています。 4つあるコースの中で、一番繁華街であるターミナル駅周辺を担当しています。昨日がその夜回りの日でした。 川沿いや公園の近くのコースだと、人通りが少ない分野宿を

withコロナで生きていくために。

ああ。このままじゃ、破滅の一途だ。 コロナウイルス感染拡大のニュースが流れてくるたび、暗澹たる気持ちになりました。リーマンショック以上に恐ろしいことが起きるだろう、と2月の終わり頃から思い始めるようになりました。 わたしはホームレスの人たちに関わるようになって、16年ほど経ちます。 ▼経過はこちらに詳しく書いていますので気になる方はよかったら▼ リーマンショックといえば、2008年。わたしはまだ高校生でした。その後大量の派遣社員が失業することになり、派遣村ができました。

ホームレス問題に関わる人がパラサイトを見た感想。

やっと見に行けました、パラサイト。パルムドール賞を取る前からずっと見たかったのですが、なかなかうまく時間を作れず。見れてよかった。 先日テレビにもよく出演されている朴一先生とトークセッションする機会をいただいたのですが、その時に朴先生自身も半地下に住んでいたことがあるという話をしていました。 韓国では第一の定年が45歳だと言われており、その後仕事がなくなるとコンビニやチキン屋、台湾カステラ屋を経営をする人が多いのだとか。パラサイトに登場するギテク(父)もチキン屋経営に失敗