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続・白い壁のロフト付2階建てアパート ひーろまっつん著

 エピローグ

 僕は、その後、結婚して、伴侶を得たが、その結婚が、間違いであったことに、気づくことになるとは、思ってもいなかった。

 私は、幼い頃から、父や母から、本当に、可愛がられて育てられた。父や母から、暴力を受けたことは一度もなく、そのため、嫁から暴力を受けたことが、とてもじゃないが、許すことはできなくなった。私の祖母は、私の姉が、僕が、まだ小さい時、僕のことを、箒で、ひっぱたこうとしたときにも「おなごが、男に暴力を振るっちゃ絶対にならん!」と言って、いつも、姉からの暴力を静止してくれたし、私は、小さい時から、褒められて育てられたのである。

 また、私は、高校時代に柔道部に所属していた時にも、柔道部の顧問の先生から、敵わない相手ならば、試合中に、自分から諦めることも大切であることを、きちんと学んでいた。

 私は、親や教育者からは、そのような育てられ方をされてきたため、女性が、男性に対して、平気で、暴力を振るう行為には、本当に、強い拒否反応を示すようになったのである。

 私の祖父である、松尾重次は、熊本県の教育長を兼任して、熊本県球磨郡五木村で小学校の校長として日本国憲法の大切さを私には、しっかりと教え込んでくれた恩人であるが、祖父は、第二次世界大戦に参戦した日本の将校の一人であった。

 その祖父からの教えを、私は絶対に忘れることはない。私の家系は、熊本県では名家として有名であり、祖父は熊本師範学校を首席で卒業した天才であった。熊本師範学校は、五第帝国大学のひとつである、現在の国立熊本大学の前身である。私の祖母も、熊本県では有名な笹屋旅館を経営する田尻康友の二人の娘の一人であった。姉の名は、田尻きくえ、妹の名は、田尻ヤスコであった。そして西田家に嫁いだのが、姉のきくえ、松尾家に嫁いだのが、妹のヤスコであった。

 私は、熊本県立熊本西高等学校で、柔道部に所属し、柔道の師範の松岡先生に指導を受けた一人である。そして、いざ一級の試験に、夏休み前にチャレンジすることになった。私は一級試験の一回戦で、同じような体格であったが、背が少し小さい相手と対戦することになった。そしていざ一回戦の試合では、大内刈りで有効を取って、そのまま相手を袈裟固めで抑え込み、合わせ技で、一本勝ちを修めた。そして次の第二回戦は、私の体格の二倍はある相手と対戦することになったが、相手を果敢に攻めて、払い腰で相手を投げようとしたが、その時に頭から落ちてしまい脳震盪を起こしてしまい、相手の横四方固めで抑え込まれ必死に抵抗するも、技ありを獲られて、相手の優勢勝ちで負けてしまった。

 そして、第三回戦では、私と体格は同じぐらいの相手と、対戦したが、私の方が相手よりも持久力に優っていたため、試合終了間際に、相手がへばって来たところを狙って、大外刈りを仕掛けると見せかけて、払い腰を仕掛けたのだった。すると相手は踏ん張りきれずに、大きく回って、見事、一本!と、主審の手がまっすぐ上がった。

 しかし、相手が回る時に、試合終了のブザーが、丁度、鳴っていたためか、その一本が、副審の旗判定で取り消されて、引き分けという、審判采配であった。私は、その時は私の一級合格はならなかったと思った。しかし、柔道のルールブックを後に読んで、私は、主審が一本!を宣告した場合、副審が何を言おうと一本は、決して覆らないことを、後で知ったのである。そして、私は、その主審の采配に一切、抗議をしなかったため、そのため、私は、一級試験で、黒帯の昇段試験に合格したのである。今は、何段になっているかは定かではないが、白帯のままの、柔道の師範であることは確かであると思う。

  1. 私の父は、幼いときから、私に暴力を一切振るわずに、大切に育ててくれた、本当の実の父親のことを、私は、誇りに思うほど尊敬している。今の世の中、仕事のストレスから子供に対して暴力を振るう父親や母親が多いが、それでは、私は、子供は憎しみだけしか感じない子供に育ってしまうと思う。それは事実であり、そのような子どもの育て方を、再び、自分の子供が出来たときにも、実際にしてしまうことになると思う。だからこそ、子供は、他人に対しても暴力的な態度を、常に取ろうとするし、学校の教師にとっても、厄介な存在にしか、ならないと、私は思う。

 私は、熊本での高校時代に、毎朝、4時半起きで、新聞配達に出かけたことを、良く覚えている。私は中学3年生のときから、熊本市内の熊本日日新聞の、池田出張所で、夕刊配達を始めた。それは、私が、中学校時代の大親友のO君が、新聞配達をしていて、それを、一緒になって、手伝っていたためである。そうしているうちに、私は、自分でも、新聞配達をしてみたいと思うようになり、なんとか自分も、中古でいいから、自転車を手に入れて、新聞配達をしようと決意したことにあった。当時、新品の自転車は、約3万円ほどしたため、私は、祖母にお願いして、何とか自転車が、ほしいという話をしたのが、始まりとなった。すると、祖母の知り合いの先生が、中古の自転車を、無償で譲ってくれたのだった。その自転車は、オンボロのママチャリだったが、私には、その自転車に乗って、新聞配達ができることのほうが、よっぽど、嬉しかった。そして早速池田出張所に出向き、簡単な面接を受けて、即採用されたため、翌日から新聞配達をすることが出来た。

 最初は、社員の人が配達するのを見ながら、新聞配達のルートを確認して自分の配達する区域を、自転車で走るのが仕事だった。
 
 そして翌日から早速、自分ひとりで、その区域の配達を任されることになり、私の新聞配達の仕事が始まった。

 私は、社員の人と一緒に回って、ポストの位置をしっかり覚えることに専念したため、翌日から、一件も間違わずに配達ができるようになったのだ。

 新聞配達の仕事のコツは、道順をまず覚えることと、ポストの位置をしっかり覚えることである。

 そうすれば、新聞配達の仕事では、失敗する心配は全くなくなるのである。

 それができなければ、いつまで経っても、新聞配達ができるようにはならないため、まず、特に、注意してほしいと思う。

 そして、新聞配達の仕事を続けていると、やがては、新聞配達の仕事の、他にも、新聞営業の仕事を任されたり、折込作成の仕事、集金の仕事なども、やがては、任せてもらえるようになる。

 そうすれば、給料だって、うなぎのぼりに上がっていく職業が、新聞配達の仕事であり、新聞配達の面白いところである。

 私の場合は、中学校時代の新聞配達の仕事での功績が認められて、代配という、仕事を休んだ人がいる場合に変わりに配達する係を受け持つことになった。

 代配の給料は普通の配達員よりも高いし、たまに、お店に、朝5時頃に、顔を出すだけで良かったので、私は、高校の勉強に専念することが、大いに、できるようになったことが、とても、とても、嬉しかった。


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