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外国ルーツと多文化共生3

多文化共生 異文化理解 これらの言葉は近年政策とあいまってスローガンのように散見されるようになった

しかし、これらの言葉が外国人と日本人における「多文化共生」であったり「異文化理解」であったりする場合に使われる前提には「外国人と日本人は違う」意識がある

前回最後に書いた、かねこみすずの詩「みんな違ってみんないい」は

そもそも とりもすずもひとも、種がちがう

だから、この詩が多様性や多文化共生という意図で使われるとき違和感を覚える

同じ種である「外国人」と「日本人」はなにが違うのか

一人一人が現在に至るまでの過程における経験がその人らしさをつくるとした場合、同国・地域には、同じような社会枠組みが存在し、文化・慣習の違いにそれらはつながる

最も平易な言葉で言えば「環境」とも言い換えられるか。発達過程における環境

これは「国籍」という見方は相応しくない

日本生まれ・育ちの外国ルーツの私は完全に日本社会のルール・学校にて成長したので、それこそルーツ国が私にとっては「外国」なのだ。ルーツ国にいった時の違和感は今でも覚えている。ルーツはルーツ国らしいが、しっくりこないーという思い

もう一つ、考えてみたいのは、政策が方向転換する前には「多様性」「ダイバーシティ」という言葉が広まりLGBTQ、障がい者への理解促進等、浸透してきた事実

改めて日本国内をとっても、どれだけ「多様」であるかー私たちの周りには「異文化」があふれ「多様」な人と「多文化共生」をしているーこの事実をどれだけの人が意識しているだろうか

一人一人が違う、ただそれだけで、私たちは日々関わる人と「異文化理解」をしている現実

日常生活に目を向けてみる。私が一番難しいと感じる異文化理解の相手は家族だ

なぜ???そんなことする???という、???がいっぱい生まれ「なんで?」と聞くこともある。ときに「こういうことかなぁ?」と相手の立場で想像してみることもある。そしてときに「なんで、言うこと聞いてくれないの?」と自分への同化を求め、相手が自分と違うという、つまり「他者である」ことに蓋をし、勝手に怒る自分もいる

あるいは、自分が苦手な人、嫌だと思う人を理解しようとするのは苦しさも伴う

少しそれるが、ネットの普及とSNSの台頭で、このnoteも含め私たちは自分の声を発信することができるようになった。匿名で。自由に。

Yahoo!のニュース記事一つとっても、コメントがずらずら続くのだが

ニュースについて否定的な見解を持つコメントを見ると「異文化理解は程遠い」と思うことがある。そのぐらい、人はじぶんが「いや」と思うものに攻撃的になるものなのか。。とも思ったりする

そのぐらい、自分ではない「他者」を理解することは容易ではないと痛感する

しかし、だからこそ、「なぜ」「こういうことかなぁ?」といった相手に思いを馳せてみることは大事な機会であると思っていて、相手に聞いてみることで、なるほどと理解できることもある。こういう機会を通じて異文化理解は進むのだと思う

本当に大事にしたいのは

別に多文化共生が「いい」ものでなくてもいい

違いが「いい」ものでなくていい (どちらかというと、面倒を引き起こすような。)

けれど

違っている、一人一人が この社会に、生まれたからには、いていい存在なだけ

ただそれだけなんだと思う

それは自分が苦手だと思う人もしかり

そして、その他者と対話すること「なぜ?」「こういうことかなぁ」と相手を知ろうとすること。

これは、いわゆる3F ーFashion Food Festivalの「文化交流」ではなく

人と人のコミュニケーションそのものなんだと

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