体調不良で死にかけDAYS

なんとなく自分のことを頑丈だと思っていたし、バイタリティに溢れ、アクティブな性格をしているなと思っていたけれど全然そんなことはなかった。

私は子供の頃から体は弱かったし、すぐ体調を崩すし、神経質で精神的にもすぐ参ってしまうからフィジカルもメンタルも超よわよわ人間。

いったい何を勘違いして自分が強い人間だと思い込んでいたのか…

「そう思い込みたいだけであって、実際はそうじゃない」ということは多々ある。

自分のことを「男っぽい性格」だと子供の頃に言っていたが、それを聞いた友人が「えっ全然そんなことないよ」って否定されたことがある。普通だったらそこで怒ったり拗ねたりしそうなところ妙に感心して「なんだ、自分全然女じゃん!」と浄化されたような気分になった。

思い込みというのは小さな呪いかもしれない。

私は風邪を引くと気軽に休む。今だって現に休んでいる。
服薬後の浮遊感で頭がふわふわした状態で文章を書いている。

生理前には些細なコトで希死念慮に襲われ、免疫力も低下し体調を崩すし、自律神経だって乱れて体中の節々が痛くなる。頭痛と疲労感と食欲と下痢が不協和音を奏でている状態。月経は毎月訪れるものだから毎月体調が悪くなっているということだし、今年に入っては皮膚科・形成外科・眼科と通い詰めているのだから凡そ健康とは程遠い。

それなのに心のどこかでは自分のことを健康体だと思っているのだ。おめでたい人と言わざるを得ない。

「健全な精神は健康な肉体に宿る」というローマの詩の一説があるが、今使われているような意味ではなく、本来は「そう祈るべき」と締めくくられていたのが見事に省略されてしまったのだという。後世の人間がそう断言させたように我々の「健康」信仰というのは不治の病なのかもしれない。

自らが不健康な身でありながら、Twitterでのバイタリティ信仰にそうだそうだと頷いている自分がいる。

あらゆる病みと闇を内包しているインターネット。それはあらゆる障害であったり、心の病気であったりを筒抜けにしているが、個人の疾病や葛藤があからさまにされる世の中において、自分だけは違うと抗いたがる人間の性。

心が弱いから自分だけが強者であると思い込みたいのかもしれない。
だから「成功者の共通点」なんて誰かの個人的な何の意味もない言葉の羅列を真に受けてしまうのかもしれない。

インターネットの言説も思えば呪いの一種で
・健康信仰
・育ち信仰
・成功者信仰
・遺伝子信仰
・親ガチャ信仰
・バイタリティ信仰
などさまざまな信仰が流布している。

自惚れた人間が真に受けると奢りが増し
捻くれた人間が真に受ければ僻みになり
怠け者な人間が真に受ければしない理由になり
自信のない人間が真に受ければ自己否定に繋がってしまうのだ

「自分は不健康な人間である」
だけど、人生が楽しくないわけではない。
健全な精神も肉体も手に入れていないけれど、常に満たされた気持ちでいる。

人は健康=エネルギッシュだと思いがちだが、病気も病気でエネルギッシュなものかもしれない。今こうして病気をしたことで文章を書いているし、大病を患って人生観が一変したという人もいる。

健康は確かに大事だが、不健康から見える景色もあり、
健康だけを追い求め過ぎても、不健康の楽しみ方を知らないまま終わってしまう。

今わたしはノートパソコンで文章を書きながら、テレビでドジャースの試合を見て、出前を頼んで好きな食べ物を食べている。子供の頃学校を休んで見たNHKの教育番組は楽しかったし、同年代のいない公園を独り占めするのも、街中で遊んだりするのも楽しかった記憶がある。学校の授業中のことなんて今は何一つ覚えていないのに、休んだ日のことだけはよく覚えている。

普段であれば日中を楽しむことはできない。生活の中心がなんでも仕事になってしまう。自由気ままに思ったことだけをしようだなんて思えない。好きな時間に起きて好きな時間に寝て好きな時間に仕事をして好きな時間に出かけて好きな時間に遊ぶという生活をしたくなった。

休みを通してニート願望が強くなったというダメな休み方である。



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