精一杯生きる為に「すべき」を捨ててみた
「大学へ進学すべき。」「正社員として働くべき。」
「結婚すべき。」「家を買うべき。」「子供を産むべき。」
若い女性には沢山の「すべき」が待っている。
親の助言。友達の意見。社会の「常識」。
口に出しては言われないが受け継がれる暗黙の了解。
30歳の誕生日に私は「すべき」を捨ててみた。
仕事を捨てた。
正社員として働き出して4年半、私は正社員としてのキャリアを捨てて退職した。
いつか退職するであろうとは思っていた。でもまさか30歳と言う若さでするとは思っていなかった。
私は22で脳手術をしている。24でやっと大学を卒業。25で就職。そして27で関節リウマチを発症した。
子供の頃から病弱だったが、大人になって自立しようとしているところでのこの二つの大病が私の人生論に強い影響力を持っている。
「正社員としての地位」は「障害者」の私には雲の上に思えたぐらいの「地位」だった。
一生自立出来ないであろう。一生働けないであろう。一生両親に食べさせてもらうのであろう。
そう言われ続けた20代前半から勝ち取った「正社員」としての働き方はお給料こそ低かったが、当時の私にしては掛け替えの無いものだった。
それを5年も経たずに「捨てた」。
「正社員として働くべき」は私の価値観ではなく「社会の常識」から来ているものだと気がついた。
リウマチという身体の自由を奪っていく病気になり、私は「自分はどう生きていくべきだろう?」と考え出した。
働く時間と場所の自由が欲しかった。仕事の選択の自由が欲しかった。
正社員の安定も捨て難かったが、それ以上に私の「動ける時間」を大切にしたかった。
「正社員=社会の信用」。
正社員をしている人にはわかりにくいかもしれないが、正社員じゃなくなった途端に直ぐにわかるものがある。それを失うのが怖くて考えるだけ、悩むだけで時間が過ぎていった。
安定したお給料。安定した仕事。毎週40時間「いるべき場所」「するべきこと」がある。
でもリウマチ痛みと戦いながら気がついた。どれだけ働いてお金を貯めても、そのお金を自由に使える自由な身体と精神が無ければ無意味だと。
このまま身体の自由を奪っていく病気と正面から向き合って休養しなければお金は貯まるが、旅行も出来ない。友達と遊べない。やりたいことがどんどん出来なくなる。当時の会社でのパワハラも精神的にジワジワと追い詰めてきていた。
30歳の誕生日、退職を決意した。
進行性の病気を持っている身として、一日一日が重要だ。
誕生日の夜に考えた。
「10年後の私、40歳の誕生日。もし40歳の私が人生で多分一番『動ける』30歳の私に戻れるとしたら何をしたいと思うだろう?今の仕事を正社員という地位が安定しているからと言う理由だけで続けるだろうか?それとも念願のフリーランスに挑戦するだろうか?」
40歳の私は「まだできる時に、やりたかったこと」をするべきだったと後悔してるのでは無いだろうか?直感的にそう思った。
私は「すべき」を捨てて退職し、フリーランスに挑戦する事にした。
退職してからもう直ぐ2年が経とうとしている。後悔は無い。
逆に恐怖の第一歩を踏み出す事が出来た30歳の自分に感謝しかない。
怖かったよね。不安だったよね。泣いたよね。覚えてるよ。ありがとう。
家事も捨てた。
私の31歳の誕生日を祝って?家を購入した。タウンハウスなので地下と3階まであり、全て合わせて4階建。
高校卒業以降アパート住まいの私には大きすぎるテリトリー。なんと言っても掃除しないといけない表面が多い!
半年かけて私は「家事をすべき」を「捨てた」。家事をしないと大人じゃないなんて誰が決めたんだ!
皿洗いは食器洗い機が頑張ってくれる。洗濯は洗濯機と乾燥機が頑張ってくれる。
だとしたらなぜ「掃除は人間がするべき」なんだろう?うちのお掃除はルンバ様が毎朝頑張ってくれる事になった。
私たちがすることは「フィニッシュ」だけ。雑巾で汚れを拭いたり、ロボットが掃除し忘れたところをスポット掃除する。お陰で「生活」に使える時間がグーンと増えた。
料理は作り置きが多い。気が向いたら料理。そうでなかったらうどん食べたり冷凍食品を解凍したり。毎週大好きなお鍋に野菜スープを作って置いて栄養が直ぐに接種できるようにしてる。
つくづく思うが、これだけ私と同じレベルで「常識」を気にせずに「とことん楽をしよう」と考えている夫と結婚して二人で「生きやすい生き方」を模索出来ることが奇跡かもしれない。
ありがたい。
いつも黒い雲のように私の頭の上に浮かんでいた「掃除しなきゃ。。。」が消えて快適そのもの。お陰で色々他の作業が捗ったり、運動したり出来ている。
この「すべき」を捨てて本当に良かった。
今迷っている「すべき」
私の中で今大きな「決めないといけない課題」がグルグルしている。この数年間、いろいろな「すべき」を捨てた私だけど、この「すべき」とはまだ向き合っていなかった。
私の人生を左右する最大の「すべき」だと思う。
「子供を生むべき。」
いろいろな「すべき」を捨てて、今十分以上の幸せと安定感を手に入れた。
この「すべき」は持病持ち、治療中、障害者としても深く考えないといけない。
後悔はしたくない。恐怖から立ち止まってしまっている。
でも時間は流れ続ける。いつか決めないといけない。
今はこの「すべき」の検討のために治療を止めている状態にある。なので、決めないといけない。決めて前に進まないといけない。
「すべき」じゃなくて「欲しい」。そう思えたらどれだけ「簡単」な決断になるだろう。
でもどこからどこまでが「すべき」でどこからどこまでが自分の「欲しい」なのかわからない。
考え過ぎかもしれない。時々そう思う。
私は恵まれ過ぎているのかもしれない。
妊娠するかしないかはさて置いて(これは私にはどうしようも無い事なので)、妊活するか。子供を作りたいか。全ての選択権が私に委ねられている。
「妊娠してリスクを負うのは君なのだから、君が産むか産まないか決めるべきだ。君の決断がどうあれサポートする」と夫には言われている。母からは「孫!」と少々の圧があるが、義両親からは無い。
とても恵まれている。
恵まれているからこそ悩む。選択肢があるからこそ悩む。
悩んで、悩んで、「すべき」からでは無い答えを模索してる。
後悔はしたく無い。
死ぬ直前、人の後悔は「やるべきだった」が多いと聞く。
やった事への後悔ではなく、踏み出せなかったことへの後悔。
後悔はしたく無い。でも後悔するかしないかは未来にならないとわからない。
これからどの選択であっても精一杯生きて、後悔と言う概念を吹き飛ばす生き方が出来ればいいな。と思う。
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