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75年目の慰霊の日のメモ

今年の慰霊の日は摩文仁にも行かずに、式典をOTVのオンラインで観ていた。
そしたら、私が住むこの実家を設計してくださって、今も家族で親しくさせていただいている赤嶺和雄さんがインタビューされていたのでした。
https://youtu.be/jPDKov6w5Pw?t=2967

しかも今日はあらゆる媒体で記事にもなってた。 https://news.yahoo.co.jp/articles/086678ae945d61138ea5f91dc086c098dd6f7e8b

赤嶺さんは平和の礎をデザインした人の1人なんだけど・・・
http://aka-gan.com/column/hae/1621.html
たぶん、局の方はそれは知らず普通にご遺族ということでインタビューしたのだと思う。

でも、聴きながら改めて、赤嶺さんをはじめ礎を作った方々にもきっと戦争で家族をなくしたひとかたならぬ気持ちがあったのだろうと思って、心臓がぎゅうとなった。

今年は首里高校の生徒さんが、戦争を知らない、でもそれを無理やり知ったつもりになることもなしに、豊かな想像力で悲しい記憶に自分自身で触れることをしながら、まっすぐ平和を願う、素晴らしい詩を朗読していた。胸を打たれた。

今日はほとんどの時間PCをカタカタ打ってて疲れ切ってしまった。
摩文仁に光の柱を観に行きたかったのだけど、実家の工事に伴い、自車の駐車スペースが急坂でクランクで激狭な入口という難易度の高い場所で、日が高くないとタイヤを隣家に落とすだろうなと思って、諦めた。
本当は今年も魂魄の塔に行ったほうがよかったかもしれない。
でも花を供えて手を合わせたらシャッターをパシャパシャ切られたことを思い出し、きっと今日は落ち着いて手を合わせることもできないだろうからやっぱり行くのは別の機会でもいいか、と思う。

今朝は慰霊の日にしては珍しく、雷がバリバリ言う大雨が降ったので(去年も降ったらしい。去年の記憶がない。。)、ゴミをだしがてら、なんとなく傘をさす気にもならず、ずぶ濡れになりながら表に出て裏の畑のガマ(自然壕)だった岩の前に行ってみた。そこは、私が会ったことのない祖父の骨を終戦後しばらく置いていた場所でもあるらしい。
ここは激戦地だったから、75年の今頃、こんな風に雨が降る日もあったかもしれない。きっとこの時期はこの辺の首里の人はだいたい摩文仁への道を逃げていた頃かもしれない。でもここは手榴弾も薬莢も、ほかの不発弾も、いろいろ出てきた場所だから、日本兵や米兵が、私の立つこの場所に命尽きて横たわっていたかもしれない。そんなことに想いを馳せながらしばらく雨に打たれていた。雨はとても気持ちよかったけど、意外と寒くて体がすっかり冷えてしまった。

ありがとうございます!糧にさせていただきます。