調律師イシミネさん

 実家の自室に父の友人にいただいたカワイのグランドピアノがある。部屋のかなりの空間を占めており、ぼんやりしてるとよくぶつかって打撲した。けれど私にとっては多くの時間を一緒に過ごした大切な話し相手であり家族だった。このピアノを弾くのはうちで私しかおらず、その人間がいない今、音は狂い放題で弦も切れまくりだ。いつかまた弾けるようにしてあげたい。

 そのピアノはいつも石嶺さんに調律していただいていた。私はその間、いつも傍で見ていた。そのうち、「そこ抑えてて」となり、弦の張り替えを手伝うようになった。しかしこのピアノは当時すでに古いくなっている弦がたくさんあり、しばしば調律中に切れた。「バチーン!」という大きな音とともに、部屋の隅まで切れた弦が目にもとまらぬ速さで飛んでいったこともあった。目に刺さったら失明ものである。ピアノの鍵盤は、多いところで1つにつき3本の弦が張られている。その弦は、1本100kg近くの力で張っていたりする。一本切れると今まで支えていた力が両サイドに分散するため、傍の弦も切れやすくなる。ロシアンルーレット状態である。「ここのピアノは怖い」と怯える石嶺さんの傍でいつも、すみません、と思った。
 石嶺さんに調律していただいた後のピアノは美しく鳴った。

 昨日、母から封筒が届き、開けると新聞の切り抜きがいろいろ入っていた。沖縄の話題教えて、と言ったので律儀に記事を拾ってくれたんだと思う。ありがとうございます…、写メだともっと嬉しいですが…、などと思いながら眺めていたら、そのなかの5月2日付の記事は石嶺さんの訃報だった。

 メガネをかけていない、すごくおじいちゃんな写真の石嶺さんは私の記憶と違う。でもよく見るとたしかにそうだ。

 石嶺さん、沖縄ジャズ協会の名誉会長だったんだ。「米軍基地内のクラブなどで演奏活動」「調律師として働きながら演奏活動」「アルトサクソフォン、クラリネット奏者」とある。調べてみたら、石嶺さん、すごいサックスプレイヤーだった。
 そうだ、たしかにジャズの話をちらほらされていた気がする。でも当時の私はジャズに全然心が向いていなかったためか、そのお話の内容をほとんど思い出すことができない。今ならいっぱい話したいことがあるのに。
 60年代の将校クラブでの演奏ってどんなでしたか。
 私、ミュージシャンになったんですよ。
 ライブの編成いつもサックスが入るんです。
 東京で聴いたジャズのことも、アイスランドやスウェーデンのジャズのことも、今ならちょっとぐらいお話できるのに、話せなくなってしまった。

 石嶺弘實さん、どうもありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

ありがとうございます!糧にさせていただきます。