女王蜂について書きたいよ

女王蜂にハマり、いつのまにかYouTubeとSpotifyでアクセスできる限りの全作品を網羅してしまった。で、いま感じてることをちょっぴり書き留めておきたいかもと思った。

バンドの柔軟な音楽性・センスが魅力的なのはもちろんのこと、フロントのアヴちゃんの存在に圧倒されている。正面きって胸を張って音楽で自分を表現していく気概と表現に対する誠実さ、姿勢、その純度の高さみたいなものに胸打たれたのかもしれない。
一人の人間ってそもそも複雑だし、そのままでいいし、でもその単純化できない自分を真っ直ぐ表現するただそれだけのことに勇気が要るという現実もあり、でもそれをすることはこんなにも魅力的であり、そして音楽にはそれを可能にする底無しの懐の深さと尊さがあり・・・と、いろんなことを思わされる。そして、聴き手の心情を鏡のように映して複数のマイノリティ性とマジョリティ性の間にあるデリカシーや構造の問題をガンガン可視化されるようにも感じる。心に「届く」語彙選びが刺さりすぎる。自分自身の、社会的に黙殺されてきた類の傷を受け止めて焚き上げてもらっているような感覚すらあり、ある種の癒しのようでもあり。歌詞や声に「濁」にも大きく振れる包容力。「濁」も他者が気持ちを委ねうる「大きな器」の表現に昇華されるているところに、知性と覚悟のようなものを感じてやまない。


と、ここで終わるのもなんか物足りないので個人的に印象的だった曲のリンクをいくつか貼ってみようかな。

アルバム単位で旧作から順に聴くと、アルバムごとにフィーチャーされている側面やテーマは変われど、たとえば「Q」や「雛市」から「十」へという文脈などで言葉を失うほど重く・そしてまっすぐに差し出されるストーリーが地続きになっていたりすることで、アーティスト性に奥行きが出るというか、作品の説得力が一気に増す気がする。そして楽曲ごとに柔軟に姿を変えるバンドの音にメンバー同士の信頼関係を見る思い。



2019年のEP「火炎(Full Edition)」収録の「あややこやや」などは、殺傷能力の高いショートフィルムを観たような印象だった。歌の表現力も相まって鋭い刃物のような凄みを感じる。
小学校を思わせる情景に、女子のえげつなさとその背景にある性の非対称性という暴力、大人による子供の搾取・・・いろいろな可能性が頭をよぎり全神経が耳へ。絶妙なところついてきて、エッジがきいてて風刺もきいてて、キャリアで歌詞のスキルを洗練させてきたんだろうなぁと思ったら、2011年というだいぶ早い段階での「孔雀」に「告げ口」という曲で初期バージョンが既に収録されていてびっくりした。



8年前のアルバム「蛇姫様」に収録された「鉄壁」。アヴちゃんが「他の曲に比べて飛び抜けて思い入れがあるわけではない」とインタビューで答えているのを読んだけど、人間くささや優しさ、意識の矛先などの、最近の先品までずっと通底するものがよとても素朴な形で表れているような気がする。「その場で膝突き泣きじゃくるあたしを認めていいの?」という、日記のように無防備なアプローチがありながら、最後は明確なメッセージとともに愛情に着地するような。「あたしが愛した全てのものに/どうか不幸が訪れませんように/ただひたすら祈っているの」


2018年のEP「HALF(Full Edition)」に収録の「HALF」と「FLAT」は、どちらも歌詞がぐいぐい入ってきた。「HALF」は混血児を意味する言葉として歌われている(ように聴こえる)。薄々感じてたことだけど「半分なんて思ったことないぜ」って一言で、この単語(ハーフ)に一気に敏感になった。「誰かのせいにはしたくないよ/生まれてみたいから生まれて来ただけ」主体性しかなくて好きなフレーズ。
「FLAT」はジェンダーやセクシュアリティについてのことが連想される歌詞で、超当たり前のことを歌ってると私は思うんだけど、聴くとうるっときてしまうところが社会の状況を表してるかなと思う。



THE FIRST TAKE でのアヴちゃんのパフォーマンスは、すごくダイレクトに彼女の魅力を感じられる2本だと思う。実際にパフォーマンスに触れたのはこの動画が初めてだったけど、やべーなんて輝いてるんだろうと思って何回か繰り返し観てしまいました。
アンテナに引っかかる方は、ぜひ沼にはまってみてください。


ありがとうございます!糧にさせていただきます。