野中広務元官房長官の訃報によせて

野中広務元官房長官の訃報。
心よりご冥福をお祈りいたします。

SNSで目にした沖縄タイムスの野中さんのインタビュー記事に触れ、久しぶりに沖縄も絡めて書こうと思います。

言葉や態度には、その人の心が滲み出ます。

野中さんも、時の総理小渕恵三さんもその困難さを痛いほど知りながら沖縄(沖縄島に限定された視点で書いてしまいますが)の状況をよくするため尽力されたのだと思っています。

私は沖縄の声を代表する者では決してありませんが、それでも故郷ですから、思い起こせば「犯す前にこれから犯しますよと言いますか」、「最悪のタイミング」、直近でも「それで何人死んだんだ」、、、国政の中心から心ない言葉が聞こえてくるたび、軽視されるというのはこういうことかと思っていました。ニュースを観て怒ることをやめたので今はもうそのようなこともありませんが、少し前まではよく我が事のように傷つき怒りに震えたものです。

沖縄をめぐるあれこれは根が深く簡単に解決が叶わず忍耐を要するので感情的になりやすいのだろうと、そのうえ複雑でセンシティヴな事象ばかりですから失言を生みやすいのだろうと思います。

こんな今になって振り返れば、内閣におられた戦中世代の方々が沖縄に対峙した際に放つ言葉には心があったことに気づきます。そしてどこか屈託を感じたのですが、その屈託は、戦争を知り、沖縄に対する想像力があるがゆえに生まれたものかもしれないと思います。

インタビュー記事から http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/87135

-1997年の米軍用地特別措置法改正の特別委員会の委員長報告で「沖縄県民を軍靴で踏みにじることがないように」といった。
 「法案は可決されたが、初めて沖縄に行ったときに『あそこで妹が殺された』といって泣いた運転手のことを思い出し、かつての大政翼賛会のようにならないようにと口から出てしまった。これは不規則発言として議事録削除されたが、特措法を通すならいっておかないと委員長をやった責任がとれないと思った。政治家というのはそういうものだ」

「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないよう」と話す野中さんの手は震えていました。国会の場で、そんな風に身を賭してくださる方だったのだ、と感じ入ってしまいます。
懐古趣味になるのは嫌ですが、野中さんも小渕さんも、橋本龍太郎元総理も、大田昌秀元沖縄県知事も、政治の世界で全力疾走された戦中世代の方々がだんだんと役目を終え遠くに行かれます。社会や人々の心に残していただいたものはこの先どのように手渡されていくでしょうか。
私は未来永劫政治家になるつもりはありませんが、あのように力強い哲学や覚悟や良心を持てたらと、そしてそんな気持ちを教えていただけることを有り難く感じます。

エゴを払い、人と世を想いながら自分のフィールドで先人に恥じない生き方をしたい。そんなことを思う、公私ともに訃報の続く今日この頃です。

ありがとうございます!糧にさせていただきます。