世の中には物理的な境界線は存在しないのではないか。
人々はあらゆる物事をカテゴリー化してきた。
それは人間がコミュニケーションを図る上で、カテゴリーに分けた方が伝わりやすいし、分かりやすいからだ。
しかし、現実はどうだろうか。
植物、動物、人間、女性、男性、写真、絵画、フィルム、デジタル…。
もちろんそれぞれに特徴的な部分はあるかもしれないけれど、全てが別物ではない。
特に近年はそれぞれの定義を再認識させられる場面が社会的にあり、その境界線があやふやになりつつある。
それが人々にとって良いことか悪いことかは別として。
わたしは写真を撮ることが好きなので、特に写真に関することを考えることが多い。
例えば、デジタルorフィルム論争や、加工の度合いなどでしばしばSNS上に浮上する。
今日において、それらの論争が繰り広げられること自体、様々な世代や価値観を持った人々が混ざり合うSNSという環境ならではだと思う。
(このことをここで深く論じるつもりはない)
また写真も絵画も、ほとんどの作品が四角く切り取られていることも疑問である。
それは、センサーサイズや紙など、作品を制作する上で使われるあらゆるものがすでに四角に規定されているからだ。
いろんな場面で四角い方が都合が良いのだろう。
しかし、自然本来の環境で、四角に切り取られているものはどれだけあるだろうか。
そんなこんなでわたしはここ1,2年、社会的に定義されている物事を、いろんな角度で考え、自分の考えを写真で表現したいという思いで試行錯誤してきた。
海外の芸術家や映画監督の作品で、好きだなと思った作品の作家がことごとく日本の古典芸術にインスピレーションを受けたと語っているのを見て、浮世絵作品を観に行ったりもした。
自分の好きを全て凝縮したものを撮りたいと思った。
その結果、拘りすぎて撮りたい写真がほとんど撮れなくなった。
昨年末、何か自分の写真をプリントしたいと思い、プリントを意識して何か新しい表現ができないものかと思い、朝起きてすぐ現像をした。
その写真が、急遽自分の中で表現したいものと合致した。
誰に評価されるでもなく、自分の中だけで納得した瞬間だった。
これ以降、この作品を超えるものはまだできていない。
頭の中のものを表現できるほどの編集技術を持っていないのが、作品制作をする上で大きな妨げになっていることも否めない。
どれだけ自分が納得のいく作品の枚数が揃ったら、写真展や写真集を出せるのだろうか…。
Hiroko.ö
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