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過去からの贈り物<急> 自己肯定

10年前に受け取った贈り物が今に響いた。
そのエピソード最終章。
前の二章へのリンクは、記事下に置いておきます。

最終章<急>は、自己肯定。

この概念には、多くの人が言及しているし、それだけお悩みの方が多いのだろう。

わたしも、以前はご多分に漏れず、自己肯定マイナスだった。
受容もできなかった。
「10年前の贈り物」を受け取った頃は、かなり、向上が見られるようになっている頃だ。

そうなるに至った要素の一つは、贈り物の主である、くまちゃん...では、ある。
が、これに限っては、もっと大きな役割をした人がいる。

それは、わたしがくまちゃんと面識を得る直接のきっかけとなった、ある友人だ。

ここで、彼女について多くは述べない。
ただ、わたしのマイナスな自己肯定感を爆破してくれた人だ...とだけ、書いておく。

自己肯定感どころか、その他の観念、世界観そのものを、根底から爆破されたような有様だった。

罪悪感こそ諸悪の根源、というのも、その人を通して理解した概念の一つ。
他にも、数多くの、人生観を覆す発見をもらった。
たった1年数ヶ月の間に。

急激なことで負荷も途方もなく、その一件の前後では、物事の記憶のしかたであったり、在り方の多くにも変化がある。
まるで劇薬のような人だった。
(もっとも、先方も同じようなことをわたしに対して思っていた可能性はある。人間関係はお互い様だ)

どういう経緯があって、そこに到達したのか...というのは、あまりに長くなるので割愛するとして。

2012年1月に、自分讃歌の原文を書いた時点では、わたしはまだまだ、
「少しは自分を褒めることができるようになってきた」
程度だった。
だから、筆者としての役割を手に交代しなくては、「自分を讃える」ことができなかった。

原文を書いてからほぼ一年後に、くまちゃんが歌ってくれた曲が、手元に届いた
録音等の作業の現場にいたという方から、制作の様子をかなり詳細に聞くことができた。
そして、その内容は、またしてもわたしを泣かせるに十分な逸話だった。

2011年~2013年あたりは、とにかく心身のアップダウンが激しくて。

14年離れていた絵の道に本格的に戻ったのが2010年。
そこからの数年は、自分の内面が安定し、軸が整うための訓練期間だったように思う。

絵に出てくるのも、2010年は天使、2011年秋から日本の神様、2013年になって龍。

自分でも安定してきたなと感じられるようになってきた2011年秋に、日本の神...素戔嗚尊の最初の一枚ができあがった。
そして、龍が出てくるようになってからは、少々のことでは荒れなくなる現在へと至る気配が、出てきている。

内面が安定していなければ、手を出せない。
そんな領域が、ある。

ただ安定していればいいというわけでもない...と、思う。

凪ぎ、無感動、無関心
そういった状態もまた、ある種の「安定状態」だからだ。

わたしは、カミゴトに没入するあまりに、人間性が壊れていったような人達にも会ってきた。
そういう人達も、一見、とても安定しているように映るということを、知っている。

 

いかにして自己否定を逆転させたか

昔のわたしは、自己肯定感マイナスだった。
起きるかどうかわからない未来のことを不安に思って「今」を浪費していた。
何も経験していないのに...だからこそ、未知の未来が怖かった。
今ないのだから対処できない物事への対処方法を、何度となく想像した。
そのたびに、手に負えない不安が育つ。
自分への無力感、無価値感ばかりを育てた。
自己否定が服着てる状態。

だが、そんなわたしでも、逆転することはできた。

ある時
決断したから。

「自分を、全肯定する」

 

行動思考ではなく「存在」を肯定する

マイナスポイントを減点して、否定する...とか。
受け入れがたいと感じる、自分の中の嫌な面を、否定...とか。
そういうの、一切なしに。
良いも悪いもなく。
プラスもマイナスもなく、ポジティブもネガティブもなく。

自分、という存在そのものを、丸々肯定する。

そうすることができる根拠
それを、昔のブログに書いている。
全文コピー等はしないので、興味ある方はリンクをたどってみてほしい。

今ここでは、根拠だけ、書いておく。

自分の「0→1」のステップは、自分以外には誰も、知らないのだ。
ならば。
その、唯一知っている者である「自分」が、0→1の努力を褒めずして、誰が褒める?

何かを決めるに至るまでの0→1
行動に移すまでの0→1
やらないでおく、と決めるまでの0→1
現状維持を選ぶまでの0→1
思い癖とか、考えすぎとか、そんなマインドも、今までの道のりの0→1の連続で作られていったものなのだ。

裏目に出たことがあったとしても。
いい結果にならなかったとしても。
間違っていたとわかってしまったことでも。
後悔するようなことであっても。

そこに至るまでには、必ず、0→1のステップがある。
そこで何が起きたのか、何を思ったのか、どう選んだのか。
その真相は、この世にただ一人、自分自身以外には、誰も知らないのだ。

だから。
存在自体を、全肯定する。

 

これを決めた時から、わたしは、自己否定へ向かいそうになる自分を、自覚できるようになった。

自覚できれば、止めるのも方向を変えることも、そんなに難しくはない。

「わかっていても、できない」と嘆く人にも出会うが。
あなたが「わかった」のは、どの段階かな?

うっかり自己否定の渦に巻かれてしまってから、その渦中で「わかった」のではないかな?

そうじゃない。
巻かれる前に、自覚する。
このままだと、例のルート行くな...と、自覚する。
それで、ブレーキをかけられる。

もちろん、これには訓練が必要。
初めのうちは、「前に」が、つかめないから。


そして、この決断に至ることができたのは、冒頭に述べた友人のおかげだった。
爆破された後の惨状の中で至った、結論。

これがなかったら、自分讃歌の中の「世界への讃歌」には、行き着かなかった。

 

 

そうは言っても「やらかす」がなくなったりはしない。
だからこそ。

当然ながら、日々の積み重ねの中では、失敗も起きる。
笑ってすませられることもあれば、深刻な事態になることだって、ある。

そういう時には、どうしたって、「わたしなんか...」という思考に陥りやすい。

でも、これまでに学んできたことの中には
1 「失敗を招いた自分の行動や考え方」を反省し、繰り返さないこと
2 しかし、失敗を招いたことと「自分の存在」を同一視しないこと
という、大事なことがある。

起こしてしまったことで痛い目に遭うのは、しかたない。
それは引き受けなくてはならない。

そして、そのことは、自分の存在の価値とは別モノだということ。

それでもね。
どうしても自己肯定ができない…って困っている方がおられたら、

「まずは、何もかも横へ置いて、自分が今生きているってことを盛大に心の底から褒め讃えてください」

って、お伝えします。

究極、これだけでいいと思う
生きてる価値がわからない...とか、そんな時でも

 

今は、それだけでも十分。
キレイゴトでもなんでもいい。

正直、わたしも時々、そこに戻ることがあります。
今でも、あります。
それでも、なんとか上を向いて、生きてきた。
こんな偉そうにしてるけど、弱々なところはホントに弱々なのです。
いろんな人のお世話になって、煩わせて、ご迷惑もかけて、不愉快な思いもさせて、非難されることもあって...そうやって、どうにか、やってます。

それでいい...っていうか。
それしかないから。

誰かを代弁するとか、そんなつもりはカケラもないけど。
わたし自身の話なら、できるから。
(家族の通帳紛失しちゃった...とかさ、わりとシャレにならない失敗も多々、やらかしてますよ...ええ)

 

 

これから

8月のくまちゃんの福井イベントで、お土産に御朱印帳をいただいた。
その1ページ目に、手書きしてもらったものがある。

手が語る世界を拡大させよ BYくまちゃん

 

こうやって、いささか理屈っぽい駄文を書き連ねることも、一つの「手が語る世界」。

というか。
わたしは、もともと、文章を書くことの方が、絵よりもずっと、好きだし、楽だ。

絵は可否が如実に見えるし、負荷が高い。

いずれにしても、これほどいろいろな手段で「世界を拡大」ができるというのは、ありがたいこと。

世界への讃歌
万象礼讃
それを、拡大させる。

それが、わたしの神の願いでもある。

 

自分讃歌を思い出し、受け取った頃のことを思い出し。
そこに至るまでの過程を、思い出し。
これから先のことを、思う。

「なんのために」に、魂が入ったから。

さすがに、もう、これを忘れることはないだろう。

 

“ほんっっっっっとうに、手間のかかるヤツよな”

て、後ろでわたしの神が苦笑いしている。
しょうがないよ、なんたって、わたしは「アナタ」の手だから。
あなたくらい手間かけさせた神も、いないでしょ。

そう。
神と人は、相身互いなのです。

 

  

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