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精緻と武骨の共存を

生まれてからの大半を、愛知県で過ごした。
愛知には、瀬戸と常滑という「やきもの産地」が二箇所ある。
加えて、ボーンチャイナのブランド「ノリタケ」が始まった地でもある。

2020年の春に移住した福井県越前町は、「日本六古窯」に指定されている越前焼きの本拠でもある。
(ちなみに、六古窯とは、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯=越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前の総称。記事末にリンクを載せておく)

瀬戸も常滑も住んだことはないものの、何度も訪れた場所だ。
瀬戸には友人もいるし、道具や絵具、陶土を買っていたのも主に瀬戸だった。

越前に至っては、中心地に住むこととなり。
息子はやきものの研修所にお世話になっている。

そして。
福井県の隣には、石川県があり。
そこは、海外でも誉れ高い伝統工芸「九谷焼」の産地だ。

「やきもの」と一括りにしていはいるが。
瀬戸焼、常滑焼、越前焼、九谷焼(そしてもちろんノリタケも)...これらは、実際には、まるで「似て非なるモノ」だ。


日本でいう「やきもの」には、大きく分けて「磁器」と「陶器」がある。
大雑把に述べると、両者は「原料」が違う。
磁器は石、陶器は土だ。
この違いは、些細なようで、決定的なのだ。

そして。
同じ「陶器」という中にも、多種多様な作り方がある。
窯の種類一つとっても、電機窯、薪窯、ガス窯...とあり。
釉薬をかけて仕上げるもの、かけずに仕上げるもの。
土や釉薬の成分。
絵付けを施釉前にするか、施釉後にするか。
などなど、実にたくさんの分岐があるのだ。


海外では、そこまで厳密な分類はないらしい。
立体造形品用のインスタを新しく作るにあたって、アカウント名や主に使って行くハッシュタグの選定などのためにリサーチしてみたところ、それがわかった。

細分化され固定化されてきた...というのは、日本らしい気がする。


わたしは無節操なので。
なんでも、やる。

窯は、自由にはならないので。
使える範囲の焼成方しかとることはできないが。
それでも、磁器も陶器も適材適所だし。
絵付けを施釉前にするか後からするかも、一つの作品で両方やる時もある。

絵付けの種類も、実に多種多様。
だが、そこは、かけられるコストには限界があるので。
好きな種類に絞った。
それでも、数種の技法を適時使うことには、なる。


伝統的な方法一つを長く研鑽し続ける職人の方からしたら、邪道で外道だと思う。
第一、どれもこれも、理解や技術は浅く拙いままとなる運命とも言える。


先日、九谷焼の古窯跡博物館へ行った。
九谷の絵付けは、繊細で精緻。
豪華で、とにかく美しい。
少し盛り上がったガラス質の和絵具は、宝石のようだ。
よくこんな細い線を引き続けられるな、と思うような、極細で正確無比なラインの重なりと、和絵具の透明感と、金彩。
これぞ、工芸...という風格。

そして、石川県との境目に近い福井県には。
越前焼よりもずっとずっとずーーーーーっと前の時代を物語る、もの凄い歴史的遺物の焼き物が出土している。

縄文土器だ。

年始に、その展示を、見学に行った。


縄文土器は、釉薬を用いない仕上げで作られている。

土の肌目はそのまま残り。
炎の跡が残り。
ぱっと見た印象は、武骨。

しかし、表面に刻まれた文様は、多彩で、繊細で、大胆で。
彫り込まれたり、盛り上げられたりと、造作の趣向も凝っている。

なにより。

その意匠に、血が騒ぐ。


この数年、スピリチュアル界隈でも縄文がブームだ。
あっちでもこっちでも、縄文、縄文と、呪文のように飛び交っている。

縄文の頃には争いがなかった...とか。
いろいろ、まことしやかに語られている。

ぶっちゃけ。
そういう話は、わたしには、どうでもよい。

わたしの血が騒ぐのは、シンプルに
「縄文の文様」
への共振だ。

彼らの信仰が、どの神なのか。
今の神と違うのか。
そういうのも、別に、構わない。

彼らには、彼らの信仰があった。
わたしには、わたしの信仰がある。

その両者には、共通する要素が、確かにある。

そこが、共振する。



流線
火水(カミ)

縄文土器の代表格である「火焔型土器」は、炎を象ったとされているので、その名で呼ばれているのだが。

わたしは、あれが「炎を象った」ものとは、思っていない。

それも、要素の一つ…ということ。


火は水を生む。
渦を生む。
神話にも、語られている。


さて。
わたしの作る(ことになる)やきものは。
カミのお目がねに叶うモノと、なれるだろうか。

土地の力を、お借りして。
人のチカラを、お借りして。
精緻と武骨の共存を。




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