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成熟したい経済記者の理想論のような話

「ちょうどこの日は〇〇記念日でして~」
「政府から賞をもらったサービスなんですけど~」
「すごい売り上げを上げている新商品で~」
「とにかく映像的インパクトはありますよ~」
「他局さんはほぼ来られるみたいで~」

このあたりの<売り文句>で始まったら、経済記者としては、ほいほい飛びついて取材には行かず、少し立ち止まることにしています。
「〇〇記念日」は大抵ダジャレか後付けのものばかりですし、「政府」とはそもそも記者としては疑ってかかる監視対象ですし、「すごい売り上げ」でしたらCMや広告で宣伝してくださいですし、「映像的インパクト」がメインのネタはニュースじゃないところで取り上げられればいいし、「他局さん」がたくさんいるなら僕は必要ないですよね、って心の中で思っています。
もちろん、上記がニュースの小さな構成要素になることもあるとは思いますが、決して<ニュースの入り口>にはなり得ません。<ニュースの入り口>は、本来的にはひとつしかないのです。

「困っている人がいること」です。

ニュースが生まれるきっかけは、これしかありません。まず困っている人々が確かに存在して、その人々を救う、またはその人々の成熟を促す可能性を持った新商品や新サービスや経済政策を伝えること、それが経済ニュースだと思います。あるいは、まず困っている人々がいて、その人々をさらに困らせる、搾取しようとする「権力」を追及すること、それも経済ニュースでしょう。

いつからか<経済>と<ビジネス>の境界線が曖昧になった気がします。
<経済>は、困っている人を前提とした<人の成熟>を目的とした活動で、<ビジネス>は、企業戦略や相場など<金もうけ>を目的とした活動です。<ビジネス>が、結果的に<人の成熟>をもたらすこともあるとは思いますが、それは<金もうけ>の「副産物」にすぎません。

当然、お金は必要です。だから<ビジネス>もニュースとして最低限お伝えすることもあるでしょう。ただそれは、ニュースではない「情報」であって、<経済>ニュースではないのです。

ですから、<ビジネス>情報の発信をどこまで抑え、<経済>ニュースを通じてどれだけ<人々の成熟>に貢献できるのか、それが<経済>記者の本分なんだと思います。

と、ここまで、未熟な<経済>記者がエラそうに理想論を展開してきたわけですが、こうやって悩みながら書くこともたぶん、記者としての<成熟>にきっと繋がる<経済>活動なのでしょう、ということで。どうかご容赦いただけますと、です。