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京都の夜とくるり

大学生の夏休み友人を訪ねて京都に遊びに行った。

学生の時分、お金もなかったので、長距離バスで早朝に着いて、二条城を横目にとぼとぼと歩き、喫茶店を見つけて朝ごはんを食べ、寺を巡った。

哲学の道を歩き、京大近くの本屋を覗き、熱い銭湯に入って、友人の行きつけのお好み焼き屋でご飯を食べた。

高校時代3年間寮で生活を共にしてきた友人が京都で異なる文化に溶け込んで生活しているのは少し大人びて見えた。

宿代を浮かせるため友人の家に泊めてもらった。雑魚寝して電気を消した中で、静寂が訪れると友人はくるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」をおもむろにかけ始めた。

くるりといえば京都にゆかりのあるロックバンドだが、ダンスミュージックのように打ち込みを取り入れたその音楽は、暗闇の中で自分が宇宙から見たらちっぽけな存在であることの虚無感、諸行無常を感じさせたことが今も記憶に刻み込まれている。

カップリングの「ばらの花」はレイ・ハラカミによるリミックスで、やはり打ち込みによる浮遊感のある音で、ただでさえ切ない曲なのに、より切ない印象だった。

他愛もない学生の貧乏旅行だが、そんな思い出の方が時折思い出される。自分の中に残っているのはそんな風景だったりする。

自分の記憶や、ここにこうして書いていることばもいつかは消えて、誰も見られないのかもしれないけど、今生きている自分の中で反芻され、自分を構成する一部となっているのだ。

モラトリアムの中で感じた虚無感は今も自分の中に浮遊している。くるりの曲はそれを想起させる装置になっていて、自分の中の京都の印象と分かちがたいものになっている。

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