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見せたくないものを見せる


 すべてを書きたいという気持ちに僕の書く行為は裏付けられている。しかしこの「すべて」を一枚の原稿に一気に書くことはできない。

 「すべて」は膨大かつ混沌としている。「すべて」は僕の表現を超えていて、僕は「すべて」を前にすると表現ができなくなる。

 ある一つが空からやってきてふと心に宿ることがあるけれど基本的に僕はインスピレーションが来てから書くということはしない。僕はぼうっとしてすぐに書き始めることにしている。
 指を動かすと少しずつ水が湧いてくる。この水の進む方向に僕は文章を書き始める。

 この水はこの先に何かがあることを予感している。この水にいつも親しみを感じる。これはなんなのか。いつも子供の頃に感じていたもの近い。
 何かをもらって得る快楽というよりも、何かを与え続ける快楽に近い。セックスよりも深く、酒よりも眩暈するが、心から湧いてくるものを書けば書くほどに僕は健康になっていく。

 おそらく書くことは与えることであり、それは読者に言葉を与えることではないのかもしれない。書くことは自分の身体に発言権を与えることである。理性や主体は、書けば何かを得たがるが、身体はそういうことを欲しない。身体にとって書くことそれ自体が喜びなのである。

 僕は湧水のように書きたいと願っている。与えっぱなしで行きたいと願っている。人々に届けることよりも人々の幸せを願っている。指を動かしながら自分を満たしていく。


 初めから作品を作ろうとすれば書くことはできない。どこかに発表しようなんて思うと面白いものはできない。そして面白いものほど発表したくない。面白いものを出すことは恥ずかしいことである。でも僕は恥ずかしいことが好きだ。

 身体のことばは恥ずかしさに満ちている。これはいつも「秘密」として理性の重たい屋根の下で眠っている。僕たちが友情や愛情を決定づけようとするとき、この秘密は必ず、顔を出す。
 涙のことば、稲妻のことば。それは流れ星のように、強く印象に残る。いろんな秘密の開示のかたちがある。秘密を言うと、何かが動く。

 時間とは何なのか。三日でグッド・バイブレーションを感じ合えることもあれば、1年一緒にいても感じ合えないことがいる。

 おそらく時間とは、無意識の深度である。青春の真っ只中で「秘密」を共にした友人を、僕はずっと心に留めている。「秘密」を共にすれば、何才であっても何でも起こりえるはず。

 時間を緻密に分析すると、時間が「今」の連続であることが分かる。時間は過ぎ去るのではなく、決まった未来に向かっているのではなく、時間とは「今」なのである。そしてこの「今」には深さがある。

 この社会はだんだんと「出会い」が薄れている。具体的に言うと「出会い」はたくさんあるが「出会えない」のである。それは自分に出会えないことと同じであり、人は「本当のこと」を話すことでしか自分に出会えない。さらに現代では本当のことを話す場所か消えていっているらしい。ことばが失われつつある。身体と声が失われつつある。

 ことばは意味を交換する道具ではない。ことばは魂の交感のためにある。交感は音楽的に感じあうということである。それは言葉を使いながらも言葉以前のことばを使うことであるが、それは「しるし」であり、「しぐさ」や「表情」や「声のトーン」などと言える。

 猫も犬もある種のことばを持っている。鳴き声という彼らの言語と「しるし」によって彼らは交感しあう。コオロギもことばを持っている。あらゆる生き物がことばを持っている。虫もことばを持っているが、彼らの声は小さいだけなのである。


 僕は人に会うとその人が話している言葉ではなくて「しるし」に注目する。つまりその人の「叫び」を聴こうとする。だから僕は久しぶりに会った友人が初めに語るものを何一つ信じない(多くは男友達である)。どこか固くなっているからであるが一応は僕は話を聞く。しかし不思議と耳から通ってその話が入ってこない。こちらは何も隠そうとはせず、ただぼうっとしている。途中で身体がそわそわしてくる。それはその友人の言葉ではなくて友達の身体が発する「叫び」を僕の身体が感知してそわそわしているのだ。

 バーで飲んでいるときでもそわそわしてくる。バーカウンターの方を見て、僕はチラチラと棚に並んだ酒を眺める。友達の言葉は聞いているが、僕の「叫び」がそういったものを聞き流すように働いている。ほとんどの場合は15分もすれば相手のことばが整ってくる。つまり若干の格好つけの言葉から叫びに近いことばが出てくる。ここからは楽しくなってくる。
 女友達はすごい。基本的に彼女たちは格好つけない。でも、彼女たちも同性間ならどうだろうか。女性がブランド品を購入する理由は異性へのアピールではなく同性へのマウントであると聞いたことがある。

 「叫び」を隠したり変に格好つけたりしてしまうのは男友達やオッサンが多い。マウントを取ってくるやつもいるが、そういうやつは本当に自信がない。としても、なぜこれほど男たちの本音が隠れてしまっているのか。どうしてだろうか?

 男はお金を稼いでなんぼ、とか、男は昇進してなんぼ、とか、飲食はブラックで当たり前、みたいな考えが周りの環境から知らないうちに自分の中にしみ込んできて、自分でも気が付かないうちにそれを常識化しそしてそれに苦しんでいる、もしくは苦しんでいることにも気がつかないでごまかしている。

 社会での建前的な言葉の乱用によって「叫び」は失われていくように見える。SNSの登場で表面的な言葉に慣れてしまった可能性も高い。
 しかし「しるし」は本音を語っている。表情や声のトーンは嘘がつけないのである。

 男が女を守る、とか、男は稼いでなんぼ、とかいうと聞こえがいい。僕はそういった前時代的な考えをひとくくりに悪いとは言えない。こういった古い考えによって誰かが利益を得ることがあるからなのだが、それで男が尖った石みたいになるんじゃなくて、もっと大きくいけないものか。男が女を守るよりも、金ばんばん稼ぐよりも、もっと目見開いて、
 弱くても胸をはって生きられる社会を目指すべきなのではないか。

 この「弱さ」は「しるし」のことである。小さい「叫び」、小さい「声」を尊重した社会。僕はある種の「弱さ」にいつも「本当の強さ」を見ている。この「弱さ」それは蓋をされているもの、隠されているもの、ほったらかしにされているものにスポットを当てそれらを解放する強力な力がある。
 そしてまさにこれにより人は人に出会うのであり、自分に出会うのであり、自然や動物に出会うのである、その時に人は小さな「叫び」こそが強力であることを知る。

 見せたくないものを見せること。見たくないものを見ること。これらは「秘密」を開示することである。勇気が必要である。
 しかしそれはただ完全に素の自分でいること、徹底的に素直でいるということである。この戦いなのだ。



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