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『書くこと』との出会い。表現とリビドーの世界



 つい先日、2週間ほどタイへ旅行に行ってきた。
タイ国内のいろいろなところを旅して日本に帰ってきて2日が経った晩、さてさて自分の日課に戻ろうとした矢先、急に熱が出てきた。
 次の日に病院に行ってみるとインフルエンザであることがわかった。

 しかも気管支炎も併発してしまい、熱は40度もあり、かれこれ十日間ほど寝込んでしまった。

 療養中は鼻水も痰も咳も出て、ティッシュペーパーを7箱も使った。
 1週間でアクエリアス2ℓを5本も飲んだから尿酸値が上がってしまって痛風を発症した。

 体重は1週間で4・5キロも痩せてしまい、鏡をみると目にクマが出て、ザ・病人という顔になっている。
 思えば最近は不摂生が続いていたし、あちこちタイ国内の知らない場所に足を運んでいてさすがに疲れが溜まっていた。そこにインフルエンザが身体に入ってきた。しゃあないな。

 咳がひどい時はベッドに横になっているのがきつくて椅子に座ったまま眠った。
 しかも熱が下がってきても痛風で足が痛い。最後の2、3日は足を引きずりながらコンビニやスーパーに行った。
 熱も下がり、咳も落ちつき、じんじんと足の痛みを感じていた夜、

 僕は天井をふと見上げてなんとなく21才の頃を思い出した。なぜなら21才の頃によく寝込んでいた時期があったからだ。

 20才の時に東京の吉祥寺に住んでいて約1年間東京に住み21才の春に大阪に帰ってきた。東京の吉祥寺から僕の地元の豊中(千里)に帰ってきた頃、僕は精神的にまいっていた。
 実家に帰ってきていたのだが当時は母親と仲が良くなくてお金もなくて僕は日に日に塞ぎこんでいった。

 1日中寝ていて地元の友だちにこんな自分の姿を見せたくないからと誰とも連絡を取らず、僕が大阪に帰ってきたことを知る友人はたったの2人でこの2人には帰るタイミングで軽く連絡しただけで、もう今はまったく連絡を取らないで誰とも会わないでただただ苦しい日々が続いていた。

 新しい仕事をするにも一切やる気が出なくて、お金もなかったので通勤代や昼食代のことを考えるともう動くことができなかった。

 毎日毎日漠然とした不安や悲しみを抱いていて「これ、うつ病かな」と感じていた。
 1、2ヶ月と辛い毎日が過ぎていってその間は生きている実感がなかった。まるで幽霊になったような日々。夜は眠ることができず、朝に寝て昼すぎに目が覚めるがベッドの上から起き上がることができないし、夕方になると起き上がり冷蔵庫を漁って適当にご飯を食べた。

 母親の仕事が休みの日は家にいるのが嫌だったので無理して近所の公園まで散歩に出かけた。青春は暗いなと思った。
 当時の僕は誰かに相談したり誰かを頼ることはよくないことだと思い込んでいた。また、東京で一旗あげたいと思っていたのに一年ぽっきりで大阪に帰ってきた自分の姿を友達に魅せたくなかったのであった。

 その頃の僕は毎日よくわからない後悔や反省ばかりしていて、時折、自殺について考えていた。完全にふさぎ込んでいてベッドで寝込んでいる時、深い海の底でひとり沈んでるように思えた。

 そんなある日、ベッドで寝ている僕に母親がひとこと僕に言った。

「あんた、ずっとそのまんまやったら、もう死んだ方がええんちゃう」

 この言葉を受けたとき僕は本当にきつくてよし死んでしまおうと思った。

 僕が大阪に帰ってからというもの、だんだんと僕に対する母親の態度はキツくなっていて僕は母親を頼ること、例えば、お金を借りることなんてできなかったのだ。
 また、僕はずっと元気で生きてきたので、いつも元気だった我が子がこの1、2ヶ月苦しんでる姿を母親は見て、そう言ったのかもしれない。
 
 何をしたらいいのか、どんな言葉をかけたらいいのか分からなかった、あれは間違ってた、と数年後、母親は僕に話してくれた。

 
 これは余談だがビートたけしもバイク事故で再起不能を医者から言い渡された時に自分の母親から「死になさい」みたいなことを言われたことがあるらしい。これは何か生物的な本能なのだろうか?

 しかし当時この言葉は強烈な響きをもっていてその頃から僕は世界からこぼれ落ちて世間のみんなが自分をあざ笑っているんじゃないかという妄想に苦しめられた
 外出することもなくベッドの上で発狂しそうでもできなくてただ意気消沈しているような時間がすぎていった。


 母親は僕が9才の頃から母の手一つで僕を育ててくれた。誰にも頼らずに生きてきたという自負があったのだろう。
 母子家庭で子供を育てていく中で、生活が苦しいときがあったとしても、それを表に出すことはない人だった。
 おばあちゃんにも助けてもらわず、辛いときがあっても自分でこらえて生きてきたのだ。だからこそ自分の子供にも厳しい言葉をかけたのかもしれない。
 毎日自死について思いを巡らしていたが僕はなんとか死ぬことなく毎日死ぬほどきつかったけれど死なずにまた1ヶ月が経過した。
 その頃、母親はたこ焼き屋を経営していた。
 ある日、母親が「たこ焼き屋においで」とメッセージしてくれた。僕はたこ焼き屋に行ったのだけどそこに常連のおじさんが五人いて本当にいやな気がした。

 僕はそこでおじさんたちに囲まれて「お母さん、困らすな」と一方的に説教を受けたのだ。

 しかも母親はその場で泣き出した。もう僕はどうしていいのか分からなかった。すると常連のおじさんのひとりが
「お前、なんでプー太郎してんねや。恥ずかしないんか」
と僕をにらんだ。僕はたこ焼きを食べて足早に家に帰った。

 他にも色んな辛いことがあったけれど、ひとつひとつ書く気にはならない。このエッセイのタイトルは「『書くこと』との出会い」である。

 僕はある日、病院に行こうと考えた。二ヶ月以上寝こんでから連絡を取り始めた友人がいた。僕が連絡を取っていた唯一の人は(3日に一回くらいだったが)同級生の女友達「友(ゆう)ちゃん」だった。

 「それ絶対うつだよ。病院に行った方がいいよ」と友ちゃんは僕に言った。

 友ちゃんのその言葉を聴いて「あっ今俺はやっぱうつなんやな」と思った。
 友ちゃんは子供の頃からなぜかいつも標準語だった。
 友ちゃんは典型的な大学生でその頃は彼女も就活で悩んでいたので、「私もたまに漠然とした不安を抱くことがあるよ」と僕に語った。
 
 僕はその時、悩んでるのは自分だけちゃうんかな、でも、大学生に俺の気持ちの何がわかる、と半分は思っていたが、病院に行くという手があったか、と驚いた。
 友ちゃんも悩んでいたのでそんなに友ちゃんも余裕がないと気づかい僕はそれから彼女と連絡を取らなくなった。

 病院に行こうと考えたが僕にはお金がなかった。これはもう詰んだ。当時、僕の財布の中には数百円しかなかったと思う。もう死のうと思った。『いのちの電話』にも電話したが適当にあしらわれてしまった。

 実家も居心地がわるく地元も嫌いになっていた。

 数日後、僕は散歩に出かけた。母親が休みで家の中に母親がいるから家にいたくなかったからだ。そしてその日、僕はなんとなく図書館に行ってみることにした。駅近くの図書館へ、誰にも会わないように遠回りして向かった。

 そしてふと、この病気を自分で治してみようと思ったのだ。

 図書館に着くと心理学の本を手に取った。しかしどれも読む気の失せるものばかりでうつ病の患者に対しての接し方、本当に悩んでいる人を救おうと書かれた本ではなく、医者が患者を見下ろしたような本ばかりだったので読むのをやめた。

 そこで僕は考えた。心理学の創始者がフロイトという人であることを思い出したのだ。今いる本棚から離れてフロイトの本を探してみた。
 僕は18才の頃から本格的に読書をし始めたのだが、何かの本にフロイトのことが書いてあってその時に初めてその名前を知ったのだ。しかし名前と精神分析学の創始者ということだけは知っていたのだけど、具体的にどんなことを提唱したのかはまったく知らなかった。

 『世界の名著』という世界の偉人たちの作品が織り込まれているシリーズの中に「フロイト・ユング」というタイトルの本を見つけたのだ。

 それは分厚くて赤茶色で歴史と品格を思わせる本だった。僕はさっそくそれを手に取って自習机でフロイトの作品のひとつを読みはじめた。
 
 フロイトの文章はとても読みやすく、文語ではなくて口語で書かれており、実際の授業内容を文字おこししたような文体だ。
 
 まるで大きな教室でおもしろい先生の授業を一人で聞いているようだった。明るいおじさんが軽やかに専門的なことを言っているので、すっと頭に入ってきたのだ。

 そこで僕は自分の精神をつぶさに点検しフロイト先生の話している内容と精神のゆれ動きを照らし合わせながら読み込んでいった。すると、

 まず僕は今、自分が「抑圧」されていることを知った。そして身体には本来「リビドー」というエネルギーがうまく循環していてなんらかの原因によってこの「リビドー」が「抑圧」されてしまい「病気」になっていることを知ったのだ!

 漠然とした不安や精神不調はまず身体のエネルギーがせき止められているだけだということが書かれていた。

 僕はその時はじめて「抑圧」や「リビドー」という言葉を知ることができそれを心身ともに理解していった、

 そしてフロイト先生は淡々と大きな黒板の前で楽しげに、たまに自分のメガネの縁を手でくいっと触りながら授業を続けていく。

 じゃあ、この「リビドー(エネルギー)」を循環させるにはどうすればいいか。

 そこでフロイト先生はある種の治療方法を発見したらしく、
 それを「自由連想法」と呼んでいた。
 フロイト先生は患者に対する「自由連想法」での治療経験を語っていく。
 それは、病院に来た患者を椅子に座らせるか簡易ベッドで横にならせるかして、患者に目を閉じてもらって心に浮かんだことを口に出していってもらうというものだ。

 初めの方は医者が患者にお題やワードを与える。例えば「赤色」とワードを与えるとそれから連想したものを患者は言葉する。「赤色」なら「赤ワイン」などだ。
 これを続けていって患者が「心に浮かんものを口に出していけるように」もっていく。
 この「自由連想法」だけでどうしてか分からないが患者の症状が改善していったらしい。

 患者に心に浮かんだものを口に出させることで「抑圧」が薄れていき「リビドー」がうまく循環し始めるという。もちろん一日だけではなく何回かこの治療を行うことでフロイトによれば「病気」が治っていくという。

 僕は感動してしまった。

 つまりフロイト先生いわく、自分の思いを言葉にするということだけで、病気の症状が軽減するというのである。

 自分の思いを言えないということがたしかに一番辛いことではないか。時折、人は一人でいても自分の思いに気づかないことがある。しかし「話す」という行為により自分の思いを発見することがある。

 フロイト先生の本に詳しいことがたくさん書かれていたがここでは割愛する。僕は1時間ほど図書館で本を読んだあと、その本をとりあえず借りて自分の思いを話す方法を考えてみた。

 まず、誰もいない場所で自分の思いを口に出していくことだ。しかし、例えば誰もいない公園で一人でぶつぶつ話すということは何か寂しいと感じた。そんなおじさんを商店街や大阪市内の公園でよく見かけた。

 その次は、ノートを買って、そこに自分の思いを書いていくということを思いついた。

 そして図書館の近くにある駅前のダイソーに行き、どんなノートがいいか見たのだが、ノートコーナーにあるあまり目立たない下の段の片隅に原稿用紙があった。

 これだと一日どれくらい書いたかが可視化できる。原稿用紙50枚入りで百円だった。まず僕は一つだけ買った。そしてまた図書館に戻って、自習机に向かって自分の思いを書いていった。

 初めはぎこちなく、ペンが進まなかった。何を書いたらいいのか分からなかったが、フロイト先生の授業を思い出し、

 「心に浮かんだこと」ならなんでもいいみたいなことが書かれていたので、僕は心に浮かんだこと、それこそ、「何を書いたらいいのか分からない」とか、「最近、とてもしんどい」とか、「どうしたら元気になれるんやろか」とか、書いていった。

 すると、二枚目に突入する時に、何か心の中に流れるものを感じた。清流のようなものが流れていることに気がついた。それと同時に、少し深い思い、自分が思っても見なかったことが文章を通して生まれてきたのである。

 僕は文章を書くまで「自分の思い」は、「自分のもの」なのでそれを出すまでもなく熟知していると思っていた。

 しかし、実際に書いてみると自分の思いというのは書いて初めて生まれていくものだと感じた。
 
 これはきっと「創造行為」なのではないか。
 時々、図書館の窓の風景を眺めながら文章を無我夢中で書いていった。するとだんだん心が軽くなってきたのだ。
 そして窓から見える木々の緑の美しさが蘇ってきた。というよりもこの美しさに気がつけるようになっていったのだ。灰色の世界に色が戻ってきような。海の深い底から、海面付近まで浮上しまような。

 その日から毎日僕は原稿用紙と向き合うようになった。
 なるべく朝起きてすぐに文章を書くようにした。初めの数日は重苦しい印象の文章も目立ったがだんだんと少し笑えるような軽々しいほんのりと爽やかさ匂い立つ文章に日を追うごとに変わっていった。
 それと同時に自分の精神もどんどん軽くなっていった。

 文章を書くことで自分が置かれている状況を俯瞰してみることができた。
 今日は何がしたいか、今自分はお金がない、どうすればいいのか、なんてことを冷静に考えることができた。
 もしかしたらお金がないことでも悩んでいるのではないか、など。

 もう気がつくと「抑圧」は消えていき「リビドー」が身体中にうまく循環しはじめ、
 「うつ病」が軽減されて僕は悩み苦しむ若者からただの金のない健康な若者に変身していった。

 しかも散歩ではなくてランニングでもしようかと思ってランニングと筋トレもし始めた。2週間くらい経つと完全に回復してエネルギーを持て余していた。

 ずっと連絡を取っていなかった友達に連絡をし、まだ会うまでに至らなかったが、大阪に帰ってきたことなどを友達らに伝えることができた。

 そして、ある日、僕が大阪に帰ってきたことを知った先輩のカタモトさんが、
 「お前仕事してるんか?アイス屋の社長が住み込みでバイト募集してんぞ」と連絡をくれたのだ。
 僕は18才の時から毎年夏にアイスクリンの販売の仕事をしていたのだが、その時に出会ったのがカタモトさんだった。カタモトさんは兄貴肌だった。僕が18才の時にアイスをめちゃくちゃ売っていたを見ていたので、どこか僕のことを気にかけながら、リスペクトもしてくれていた。
 実際に僕が東京に住んでいる時も、カタモトさんは僕に会いに吉祥寺に来てくれたことがあった。

 アイス屋の仕事の内容は、朝7時からわらび餅を作って(わらび餅も販売していたのだ)、
 そのあと12時までアイスクリンを作ったり、
 わらび餅やアイスクリンを仕入れにくる人たちに商品を提供するというものだ。

 待遇は素晴らしかった。家賃0円の住み込み、時給1000円、さらに昼食付きで、しかも日払いだった。

 僕は早速、「カタモトさん、よろしくお願いします!」と応えた。
そして、次の日から仕事をし始めた。まずは「通い」にしてもらった。

 実家のあった千里から蒲生四丁目まで1時間以上かかった。初日だけ仕事が決まったことを口実に母親に千円を借りた。往復分の電車賃で消えたが、その日は7時から12時まで働いて5千円を得ることができた。

 久しぶりの仕事は楽しくてやはり自分は身体を動かすことが好きなんだと思った。

 真夏のわらび餅作りは、室内が40度以上にもなり、とんでもなく蒸し暑く汗だくになったが、社長と二人でわらび餅を作ることが楽しかった。

 そしていつもアイスクリンを仕入れて売っていた身だったが、今度はアイスクリンを作る番である。
 作りたての新鮮なアイスを仕事の合間に食べたとき、その美味しさに感動した。いつも食べていた時よりもミルキーだったのだ。

 初日は家に帰る前に、蒲生四丁目の駅付近で外食をした。何を食べたのかはもう忘れたが、うまかったことだけは覚えている。味覚も戻ってきていた。そして家に帰って母親に千円を返した。財布にはまだ3千円ほどあった。そして次の日もアイス屋に行った。

 アイス屋の仕事を淡々とこなしながら仕事は昼過ぎに終わるので、家に帰るまでに喫茶店やカフェで原稿用紙に「自分の思い」を書いていった。

 このことだけは続けていこうと思っていたからだ。すると、自分の病気を自分で治せたことに気がついた。あれ、っと思った。いつのまにかあの不安や悲しみが、消えていったのだ。そのことを思い出せないくらいだった。

 しかも、「書くこと」が「治療」ではなくて、「健康」のために。「書くこと」が病気を治すためではなくて、健康な自分がより健康になっていくものであることも知ったのだ。

 アイス屋で働き初めて1週間が過ぎた頃には、財布には2万円ほどあった。

 そして、社長の奥さんであるオバチャンが「通勤大変やろ。あっこでよかったら住んだらいいよ」と言ってくれた。そこは、築60年のアイス工場の二階だった。

 以前はノブオさんというおじいちゃんが住んでいたが、ノブオさんは老人ホームに引っ越したらしく、今は誰も住んでいないという。少しゴミ屋敷みたいになっていた。

 その部屋をカタモトさんに手伝ってもらって三日間ほどかけて綺麗にした。

 そしてその部屋にアイスの配達中に道端で見つけてきた綺麗めなマットレスと布団を置き、アイス屋に軽トラを借りて実家から必要なものを運び出し、僕はそこに住み始めたのだった。

 すると、ある土曜日だったと思うが、7時から12時まで仕事を終えて、社長とオバちゃんと弁当を食べてながらテレビを見ていると、「もう部屋戻って休むんか?」とオバちゃんが言ってきた。
「あんたアイスよお売るやん。今日土曜やしアイス売ってきたらええやん。ギャハハ」
オバちゃんはいつも元気で、よくギャハハと笑っていた。社長は、いつも無口でおとなしかった。

「え、いいんですか!でも、急なアイスのコーンの配達とかあったら、行かなダメちゃいます?」

「ええよ、行っといで。ギャハハ」

 僕は弁当を食べて、倉庫から移動販売用の自転車を取り出し、自分で大きな魔法瓶にアイスクリンを詰め、それを自転車の荷台に積み、蒲生から天満の扇町公園へと自転車を漕いで繰り出した。

 僕は2時間でアイスを150個売った。そしてもう一度帰って、アイスを詰め直して、さらに150個のアイスを売った。
14時から18時までの4時間で、合計300個のアイスを売れたのだ。
 夕方にアイス屋の戻ると、オバちゃんに精算してもらい、オバちゃんは嬉しそうに
「な!行ってよかったやろ。やっぱりあんたよう売るわ」と言ってくれた。

 僕はその日、アイス作りで5千円、そしてアイス売りで3万円、合計3万5千円を稼いだのだ。

 そしてまだ6月の下旬だったので、夏が始まったばかりだった。わらび餅&アイス作りを日々こなしながら、土日はアイスを売りに出た。

 7月と8月は夏祭りやイベントにも繰り出した。あんなにお金がなかったのに、たった3、4ヶ月前は数百円しかなかったのに、今気がつくと財布はお札でパンパンだった。
 祭りの日は、一日で十万円ほど稼ぐこともあった。そしてふと金銭的な余裕も、精神に影響を及ぼしていることを知った。原稿用紙に思いを書くことだけでは100%安心はできなかったからだ。

 平日はアイス作りが終わると、基本的に原稿用紙に「自分の思い」を書くことを続けていた。そして本も読むようになり、小説や哲学書や詩を読むにつれ、自分でも書けるような気がしていった。
 フロイト先生から離れ、ニーチェやマルクス、そして構造主義というフランス哲学の潮流に興味をもち、レヴィ=ストロースやフーコー、そして構造主義を越えようとするポスト構造主義のジル・ドゥルーズやジャック・デリダの作品を、月日が経つにつれて読むようになっていった。

 作家になるには10年かかると感じ、じゃあゆっくり修行していこう、この10年で小説や詩を書いていって、10年後でいいからそれを発表していこうともこの時に思った。

 それから「自分の思い」を書くことだけではなくて、いろいろなものを書いていった。自分の思いから離れて、他者が感じているであろうこと、自然の美しさなども書いていった。

 その年、僕は10月までアイスを売っていた。
 10月の中旬に運動会があり、夕方にあると少し肌寒かったが、そこでもアイスクリンを150個ほど売って社長とオバちゃんを驚かせた。
 お金の余裕ができたくらいの時には、友達とも再会し、また遊ぶようになっていった。秋になると一度、実家に帰った。母親と少し和解した(今とても母親とは仲がいい)。

 そして僕は、その年の夏、蒲生四丁目の自転車屋のお兄さんと友達になったのだが、ある日、なんとそのお兄さんが合コンに誘ってくれたのだ。僕はその合コンで出会った女性に恋をした。とても大人しく、いちばん優しそうだった。その女性とその年の秋に付き合い始めた。そしてその年の冬に同棲しはじめた。

 アイス屋は秋までなので、新しい家から自転車で通える場所に新しい仕事を見つけた。
 僕の新しい人生が始まったのだった。
 あれだけきつかった状態から抜け出したこと、
僕はこの経験から「書くこと」を覚えた。

 その年の冬、同棲先の近くの駅の大きな交差点を一人で歩いている時、ふと思った。

 この僕のストーリーは、
 悩みと不安、そこから抜け出した方法(治療法)、そして喜び(より健康になる方法)、

 この経験は、いつかきっと誰かのためになるだろうと予感した。




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