マティスが好きで。
4月27日〜8月20日に東京都美術館で開催されている「マティス展」を観に行きました。
開幕当日に1人で行って、先日友達ともう一回観に行きました。1人でなんぞなんぞと思いながら、友達と行ってこの良さ伝えたいと、どうにかこうにか言葉にしなきゃと思えど言葉は出ても的を得たか自信がない始末。それだけ未知数で説明し難い存在のマティス。
まずお伝えしたいのは自分はマティスの大ファンだということ。それはそれはビッグファンです。
20歳ごろに様々な作家に感銘を受け、ゴッホやモネやピカソなど日本でも馴染みの大御所にも漏れなく感動し、この驚きと喜びをもう一度と、意気揚々と美術館やギャラリーを巡り、自分が多くの好きな作家の好きな理由をどうにか言葉にして自分の血肉にしていたころ、マティスはどうにも理解が追いつかず、言葉にできず、腑に落ちない存在でした。
美術やアートの歴史を辿れば死ぬまでに追いきれないほどの情報量になると思います。壁画から、宗教画、王族や将軍のための絵から、平面に起こりうる考え方の実験から、そんな中で、「絵」という存在がどう変化して、どう必要とされて、なぜ描きたくなるのか。技術や科学、社会的背景がめくるめく変わる中で、マティスは「絵」が発する「無限」の状態に最も近い画家だと思っています。
絵の無限の状態。これこそ絵描きが想像する最も難しく求めたい所なのではないでしょうか。余りにも抽象的、宇宙的な話で言説化のしようがないですが。
そんなマティスの回顧展が日本で見れる日が来るとは。歳が経つと感動する機会が減るとはいいますが、おかげさまでくらってきました。
私の主観ですが、とても良い展示でした。マティスがマティスたる経緯がよく分かる展示でした。
展示の最初にかけられた初期の頃の自画像。筆致も多く、ザ・マティスの絵には感じずらいかもしれないですが、この段階で色の使い方や形、その配置が妙な事になっていて、マティス節が見え隠れしていてザワザワしました。色彩豊かな部屋の絵などもあり、立体があり、晩年の切り絵まで。経過を辿りながらマティスの複雑さと豊さを観れる贅沢な展示でした。
ギュスターブモローという時代の年表的に世紀末主義と言われる古代の歴史や神話、宗教画などのシーン、木や水、土など自然の造形を取り込んだ絵画を描く師の元で絵画を学び、(モローも天野喜孝さんや冨樫義博さんのようで若い時ハマって大好き)もともと療養をきっかけに絵を描く事に没頭したマティスは更に自由な描き方を学びます。シニャックよろしく点描や、キュビズム、セザンヌ、当時の流行りの描き方を多く残し、絵の描き方、考え方に勉強熱心だった事が伺えます。絵のレジェンドは大体初期から描写が上手かったり勉強熱心ですが、俺ってすげーだろ感と言いますか、どこか自我の圧や主張が強い人が多く感じますが、マティスの絵には、その圧がなく感じ、それが絵の良さだよみたいな感覚を受けます。マティスがピカソに多言で絵を語りウザい先輩でした的な話も残ってますが、もしかしたら、ここで踏みましたみたいなフロウは辞めた方がいい、下品だよ。とかピカソに言ってたのかなとか想像します。
文化というのは歴史の踏襲と更新とはよく言いますし、資本主義になって個人の評価や活動が著しくなって、今では絵は終わったなんて言われてコンセプチュアルアートなるのが現代の絵や美術では自然な成り立ちですが、王様を絢爛華美にデザインして描く必要も、宗教を説くための絵を描く必要もなくなり、写実の必要性を議論して写実から離脱して、異国の文化を取り入れたり、立体を平面に分解して平面に描くとか、光の変化や時間を描くなんて、目で認識できないものを写実したいなんて、相当コンセプチュアルだし、何言ってんのって話で、もはやSFだと感じています。インターステラー観るくらい初見で意味分かんないし、でも何かすごいって思うから調べるしもう一回観るし、そんな挑戦してたのかと思うし、結果カッコいいし好きになるような感じです。
現代では絵も立体も写真も映像も文学も音楽もパフォーマンスもデジタルもどれも総合芸術の中でどこに重き置いてましたかという会話や考え方だと思います。空手でもボクシングでもムエタイでもブラジリアン柔術出身でも同じリングで総合格闘技として闘うみたいな事でしょうか。
様々なジャンルがあり映画や格闘技を例えに出しました、それぞれに好きがありますが、自分は絵至上主義な考えがあって、絵が1番根源的で無限に近づける表現じゃないかなと思ってしまっています。そうなると無限ってなんだよって話ですが、音楽のフレーズ、ダンスのムーブ、文学の一節、映画のワンシーン、美味い一食、色んな瞬間がありますが、瞬間とは時間を要するもので、留まらず流れて、消えてしまって、もちろんその良さもあって目的も違いますが、絵はその良さも含めて「面」という固体にブラックホールのように無限に魅力を放ち続けて理解の及ばない所が留められるものだと思うからです。人の手が及ぶものが、宇宙的な魅力、神がかりや人智を超えたものになることとは違う、人の手が及んでるからこそのもので、こんな言葉的な矛盾すらそれが絵だし文化だと思っています。
マティスはその無限に近いと感じます。色や形や配置や内容、絵の描き方、その面に何を残すか、そんなの千差万別、研究や理論が進んでも限界なんてないでしょう。戦争という想像し難い社会情勢の中でその悲惨さや祈りを直接的に書くわけでもなく、その時代を生きながら、人や部屋、静物画、生活の中の景色を作り、見つけて、ただただ「絵」を描いていたと感じるんです。自分は絵を描く時、平面の枠の中でパチっと納まるように上手く書こうと思います。でもマティスはその枠を超えてるような、なぜここにこの色が、なぜこの形を?と一瞬思い、でも見てられる、ハテナ?と心地いいが同居します。派手でケバくて強烈な配色のはずが、派手でケバいのに地味で素朴で優しくも見えます。不安定な形と内容の折衷のはずが安定して安心して見てられもします。
そんな妙すら受け止めてしまってるような感覚です。
マティスの絵は切り刻んでもマティスの絵として成立すると思っていて、晩年切り絵にたどり着いたのも、切って貼る繋げる、むしろ繋がることを知っていたとも思うんです。どの絵のどこを切り取って繋げても絵として成立してしまうような、マティス永久機関とでもいいますか、絵が「ある」だけ、「ある」だけの絵。「ある」だけの絵は無限の中で無限として混ざり合うような。絵自体は人間の行いとしての、喜怒哀楽だけで表せない全方向性、360°以上のようなものがただあるだけ。
ただただ想いを書いてたら意味が分からなくなってきました。それだけマティスに驚かさながら、言葉にできない感情をもらいながら、絵画的に分析できず、今回もこの人なんなんだよと思いながら堪能させてもらいました。
決してキャッチーではなく、何の絵なんだろ、どうしてこれを描いたんだろうが分かりづらいかもしれません。でもそんな絵の良さがはみ出てる事に気づいたらもうずっと見てしまってマティスが忘れられなくなると思います。
目指しも真似もできないですが、マティスという絵描きが、絵が存在した事に喜びながら、自分もまた絵を描きたいと思います。
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