既にそこにあるものがアート。
久しぶりの投稿になりました。
今回は国立近代美術館で開催されている「大竹伸朗 展」についてでございます。
「宇和島駅」のネオンサインに迎えられ、その空気ごと移設されるような暗示にかかり、文字という平面が立体になり、看板に導かれるようにその土地を想像するだけで展示への旅行が始まります。展示入口に掲げられた表題のテキスタイルも大竹さん独自のフォントで文字という記号も、一つの絵として書く、読むという創作に迎えられ、中に入れば代表作のスクラップブックという塊。平面とも立体とも言えぬ塊。切り貼り塗りが重ねられ、本状の物でも重さ30kgを越すものまである。面で鑑賞出来ればまだしも、建物になると360°ぐるぐる見る瞬間瞬間で絵が変わる塊。描く、書く、塗る、切る、貼るだけでなく、そこに音が出る、動く、聞く、奏でる、その全てが混ざる作品「ダブ平&ニューシャネル」。人が入って演奏できるとか瞬間芸術にもなってしまう。年齢や制作時間以上のパワーで宇宙状態のような一生見てられる作品群です。
大竹さんを認識したのは2006年に東京現代美術館で開催されていた「全景」という大回顧展でした。ですが当時学生だった自分は既存の美術とかアートというものに懐疑的な時期で、自分が1番!という謎のイキりの時だったので、展示に足を運ばないという今でこそ大後悔の大失態を犯すのですが、それも自分の成り立ちなので致し方ないとは思ってます。
ですがその展示を観に行った同級生はすごい展示だったと声を上げていたのですが実際見ていない自分には何がすごいのか分からないままでした。
年月が経ち、既出の作品に感銘を受けれるようにもなり、絵描きでやってくにはどうしたらと美術館やギャラリーに足を運び、移動などの隙間時間は本を読み漁る日々を過ごしました。そんな時に友人にオススメしてもらった本が、タイトルの「既にそこにあるもの」という大竹伸朗さんの本でした。大竹さんのエッセイでありながら、その創作への思いと行動にアーティストの衝動というのはこういうものだ!と当時胸をえぐられながら、偉そうにも自分もそう思ってる!共感しかない!と一瞬でファンになったのを今でも覚えてます。画家、音楽家、文筆家、彫刻家、絵本作家、コンセプチュアルアーティスト、ただのおじさん。どの肩書きでもあり、そうでもない、多種多様多角的な創作を内包してるまさに「現代アーティスト」の塊と言える存在の大竹伸朗さん。
作品はきっと初見では「?」になる事もあるかもしれません。あまりにも様々な形で、それがどんな目的、どういう見せ方を目指されてたか、資本主義で顧客重視な目線とは遠く離れてると思います。ですが超個人的が超全体的になってしまうように、作家が見つけた「既にそこにある」創作のきっかけを軌跡として残し続けている事は、既にそこにある社会という全体に、作家という個人が既視化させている作業にも感じ、同じ社会に生きるものとして多くの共感を得てしまうのも納得してしまいます。
とても抽象的な文になってしまいますが、それだけ断定する事すらナンセンスになってしまうほど無限を感じる作家さんです。
既出の雑誌などを切り取り、シールを剥がした後の枠の方を使い、絵の具をまぶし、絵の具とは言えないような塗料を使い、ゴミと言われるものの破片をまとめていても、それが枠、絵の具、ゴミではなく、なにかを作ろうという制作意図から外れた偶発的なものとしてそれを回収し納める行為。書く消す、捨てる拾う、濡れる乾く、貼る剥がす、覚える忘れる、作る壊す、そんな相反する行為の自発と偶発の狭間に起きる奇跡を作り出すために動いてると感じざるを得ず、その塊は綺麗な花とも立派な大木とも道端の雑草とも言えない、でも日常に潜む自然で不自然なものの驚きと発生を感じさせます。
平面に描かれればそれは絵なのか、そこに写真が貼られればコラージュなのか、厚みが出れば立体なのか、具象、抽象、ともいえぬ、ウォールオーバーな、そしてサイトスペシフィックなその時その場限りの表れ。色んなアートの文脈で解釈してもどの点も捉えていて、どんなアートとしてみても魅力がある作品群。
だらだら御託を並べましたが、めちゃくちゃでパワフルなのにめっちゃ細かくて、情報量とんでもなくて、なんでもやっちゃうその様が色気があってグルーヴがあってとにかくカッコいいという事を言いたいんです。あと色んな媒体の作品があるけど、やっぱり絵描きだと思うというか、「絵」って決めれないって言ったばっかだけどやっぱり「絵」的にずっと見てられるというか、タフだと感じるというか。意味が終わらない感じというか。まさに「ある」って感じです。
著書「既にそこにあるもの」で響いたのは、地元や東京を離れた遠方の地や海外でのハッとしたこと、美しいと思った事を大事にしていることです。その美しいという基準も、その土地の歴史や成り立ちの先の今を過ごす人々の生活やリアルの中に起きた、こちら側からは偶然、妙とでも呼べるような事象に美しさや驚きを感じている事です。僕は旅行をしても目的地にしか行く事ができず、目的がないと自分は何をしていいか浮かばず、道中は知らない環境への立ち振る舞いを気にして緊張してしまいます。既にそこにある美しさに全然気づけません。そう思うと大竹さんはこの地球の世界が好きで、人間が好きで美術が好きなのかもしれません。
どこか人間への虚しさ、しかし人間も捨てたもんじゃないよという嬉しさすら感じさせてくれる大竹さんの作品。見れてよかったです。四国直島にある作品、「I♡湯」という実際に利用できる銭湯。また行きたくなりました。
僕もあのハッとした瞬間が好きです。気持ちがいいです。ですが子供のときから1人で絵を描いてる時にそれが起こります。殴り書いた線に「影」を感じたり、鉛筆が折れて思ってない所に「線」が生まれたり、描いた紙の「裏の滲み」がカッコ良かったり、デジタルの描き方が分からずレイヤーを「間違って削除した」時の絵がキレイだったり。そんな自分の意図を外れた時の驚きと喜び、そこに更に意欲がわき意図が乗る楽しさ。でも偶然は自発的に生まれない矛盾があります。でもそれもまずは発して留めようとしないと起きません。その発する機会の連鎖。「できた」ではなく「できちゃった」ような。矛盾してるから話がまとまりません。僕の思う絵なんてそんなもんです。
そんな事を思いながら今日も絵を描こう。
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