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「話だけでも聞くよ」に違和感を覚える

「解決策じゃなくて、話を聞いてもらってスッキリしたいの」

「モテる秘訣」だの「人間関係がうまくいくコツ」だの。そういう類の記事に決まって堂々と顔を出す常套句。こういう常套句には、ぼくは反射的に防御システムが作動する。いわゆるあまのじゃくだ。よく聞くような言葉、奇麗な文面、こういうのは思考を奪うから、反発する。

本当にそうか?

本当に話だけを聞いてほしいんなら、人間に頼まずに枕元の人形とかスマホに話しかければいい。一切の愚痴を表情にすら出さずに永遠と聞いてもらえるだろう。

「話だけでも聞くよ。いいよ。愚痴も永遠と聞くよ」

たぶん世の中的に「正解」の掛け言葉。優しさで包み込むような温かさもある。内面に抱えたドロドロとした感情は吐き出してしまえば一時的にスッキリする。

もし、それで本当に物事が解決するのであればおめでとう。原因は君の内にあったということになる。君がスッキリして、心のレンズがクリアになり、外界の出来事に偏見なく、ありのままに享受できるようになったから、過度な不安が取り除かれ、素直になれたんだと思う。

あるいは、独りじゃない、と確認できたからだろうか。「私のことを理解、いや、少なくとも認識してくれる人がいる」という安心感はちょー強い。心強い。「話を聞いてほしい」も「話を聞いてあげる」も期待しているところはこれだと思う。

ならさ!こう言って欲しくない?

「一緒に悩もう」って。

愚痴から出発するのでもいい。状況整理や感情整理。要点や原因を洗いざらいにし、まず、未知という不安を取り除く。そして、「こうしたらどうだろう」と複数論ったうえでお互いにシミュレーションしてみて、現実世界でトライし、フィードバックを得て、再トライする。ゲーム化する。


よく「男性は解決策を与えがちだが、女性は求めていない」と目にする。

嘘だと思う。

往々にして求めていると思う。じゃあ、なぜ上のような反発を食らうかというと、その解決策が1つで、こちらの状況をあまり鑑みもせず、自分が上手くいったからという理屈で、押しつけがましく、しかも提案した時点で「はい、これで解決」という独りよがりの悦に浸り、さらに恩着せがましく対応してくる、からじゃない?

「一緒に悩もう」は、まず目線を同じにするところから始まる。そのために話を聞かないと始まらない。当たり前だが、話を聞いて「はい、おしまい」でもない。話を聞く側も、話をする側と同様に悩まないといけない。

そう、けっこう重い。

「話だけでも聞くよ」に違和感を覚えるのは、軽いからだ。もちろん、軽くそう言えるほど度量の大きい人になれたら理想ではあるけれども、よく聞くそれは「(軽く)話だけでも聞くよ」と聞こえる。

でも、思うんだ。

軽く聞いてくれただけで解決するようなら、軽くググって、軽く解決できてるから、悩んでいない。


さて、ここまで書いておいてなんだが、じゃあどうすればいいのかということまで考えが煮詰まっていない。理想としては、それで解決する場合もあるし、少しは気が楽になるから軽い気持ちで「話だけでも聞くよ」というべきだろうけど、聞いてほしい側は、少なくとも本人にとっては一大事だから、軽い感じだけではなく真剣に聞いてほしい。需要と供給のスタンスがあっていない。うーん、、、


「一緒に悩んでくれませんか?」。



。。。と終わったら、ずるいか。

一つ言えるのは「モテる」とか「人間関係」とか、そういう外の影響に振り回されるのではなく純粋に「あなたの力になりたい」から出発するものであれば、需要と供給という味気ないものではなくて、求める者と求める者という運命的なもので巡り合うような気がする。

コーヒーをご馳走してください! ありがとうございます!