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最後に仲直りをしたのはいつですか?

大人になるにつれ、謝ることが難しく感じる。

自分は悪くない。
謝ると敗北を感じる。
そんなことは自尊心が許さない。

過去の自分を否定するようで、不安になる。
その状態で、追撃されるかもしれないのが怖い。


子供の頃、
親に、先生に、コーチや監督に叱られた。
そして、謝った。

謝る対象は、彼らであることもあったが、多くは友人だったと思う。喧嘩両成敗のもと、時には「なんで俺が謝らなければいけないのか」と理不尽を感じることもあったが、それはそれとして、仲介役に引き立てられ、謝った。

「大人になるにつれ、謝ることが難しく感じる」。これは暗に「子供の頃はあんなに素直に謝ることができたのに」を醸している。けれど、どうやら違うらしい。別に謝る頻度が比較的多かった子供の頃だって、素直に謝っていたわけではない。仲介役が諭し、多かれ少なかれ同意したから、しぶしぶ謝っていた、だけだ。明らかに自分の非が100%で瞬間的に「ごめんなさい」と口に出る場合を除けば、あの頃も今も、謝れない理由は自分のものさしでしか、物事を見れないからであろう。それでも「より難しく感じる」のは、何も自分のものさしが年月を経るにつれてより頑なになっただけではない。

大人になって、
親も、先生も、コーチも監督も、おせっかいは日常からいなくなった。

時にいざこざが起きたとしても、だれも仲介する者がいない。「見てみぬふりをするのが賢い振る舞い」という空気が支配し、その場を知らんぷりで立ち去った後で、SNSのネタとする。双方の意見を聞き、第三者として客観的に意見、あるいは裁断を下すという「ウェットで重い」関係は煙たがれ、匿名の傘の下、引用ツイートなどで「手軽な正義」を演じる。

仲介者が消えた社会では喧嘩は極端な結末を招きやすい。それを僕らは肌で感じている。だからこそ、喧嘩を極度に恐れている。けれどその種は、夫婦喧嘩のように、そこら中に転がっている。見えない地雷があちこちに点在し様ものなら、最も安全な回避策は、なるべく人と関わらないこととなろう。少し前までは「おひとりさま」は寂しいやつ扱いだったが、しがない「自由・自律」の名のもとに「強さ」の証に移り変わった。待ち時間のイライラで友人関係にヒビが入るくらいなら、「一人ディズニー」で気が合うフォロワーとシェアしたほうが楽、っといった具合に。

けんかしようよ 価値観をぶつけ合って
もっと大きく世界を目指そう

ZARD「星のかがやきよ」

親が、先生が、コーチや監督がいたらか、僕らは全力でぶつかることができた。スターウォーズごっこと銘を打ったビート板での殴り合いも、互いを認め、親睦を深める儀式となった。今や、監督者セーフティーネットはない。一歩間違えば絶交という溝を背に、ビクビクと薄く生きている。

堂々と濃く生きたいのに。

よう相棒 もう一丁 漫画みたいな喧嘩しようよ
酒落になんないくらいのやつを お試しで

米津玄師「感電」

深淵は、落ちることよりも、落ちるかもしれないと思うことの方が恐怖を駆り立てるらしい。ならばいっそ、あえて共に一歩間違えて見るのも一興。案外底は、想像よりもずっといいものかもしれない。「喧嘩をしてはいけない」という世の中のタブーは「仲直りの方法を知らない」に起因する。「喧嘩するほど仲がいい」は「喧嘩するから仲がいい」。小さな喧嘩をいくつもいくつも積み重ね、その度に仲直りの方法を身に着けるからこそ、素直な本音をぶつけ合えるし、(散々言い合ってきたから)言わなくてもわかる領域にたどり着ける。

僕らは、そうやって大人になって来たんだし、
そうやって再び大きい人になると思うんだ。


コーヒーをご馳走してください! ありがとうございます!