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読書メモ「哲学入門」ヤスパース著(前編)

ドイツの実存主義哲学者カール・ヤスパース(1883-1969)の記した哲学入門書。入門とはいえ、ヤスパースの哲学のエッセンスが凝縮されており(と解説には書いてある)、とても骨太な内容です。示唆に富む内容でしたので、自分の頭の整理を含めて、各章のポイントを読書メモとしてまとめてみます。全12講あるので、とりあえず前半部分(1-6講)から。

第一講「哲学とはなんぞや」

科学が一般的に承認される知識を獲得しているのに対し、哲学は普遍的妥当的な成果をもたない。
哲学はそれぞれの時代において到達された科学を前提にするものではあるが、哲学はあらゆる科学に先立ち、人間がめざめる場合に現れる。

具体的な例をあげると、
・『僕はいつも、僕は他の人と同じ者であるんじゃないだろうかと考えてみるんだが、しかしやはりついに僕は僕なんだ』と感じるとき、自己意識における存在意識にふれている。
・『天地創造の前には何があったのか?』という問うたときも、問いには際限がないこと、知性を停止させることはできないということ、完結した答えというものは、けっして可能ではないということを経験している。

人は生きていくうえでさまざまな問いにぶつかるが、哲学はいずれも自己を実現することによって自らを定義する。哲学とは何であるかということは、私たち自身によって実験されなければならない

といった内容の導入部分。哲学とは単なる理論ではなく、自分自身に働きかけ、人間らしくなるための実戦的学びなのです。

第二講「哲学の根源」

第二講において、哲学の根源を3つ提示している。

1.驚き(=ギリシア自然主義哲学)
人間は未知のものにたいし驚異を抱く。太陽や月、星などの動きは驚異であり、驚異の念を抱くことから認識が始まる。その認識において、無知を意識し、知を求めるようになる。

2.疑い(=観念論哲学)
驚異の念から生まれた認識により知を積み重ねたとしても、間もなく疑いが生じてくる。批判的な吟味にあうと、確実なものは何もなくなる。
デカルトの「我おもう、ゆえに我あり」という命題は、一切のものが疑われる場合でも、なお疑うことのできない命題であった。徹底的な疑いがなければ、真に哲学しているとはいえない。

3.自分の弱さと無力を認めること(=実存主義哲学)
疑い(懐疑)の遂行においては、自分の目的とか、幸福とか、健康のことは考えず、懐疑の遂行自体に満足している場合がある。自分自身のことが意識されるようになると、哲学の事情も変わってくる。「自分の弱さと無力を認めること」が哲学の根源となる。

3の問いが、実存主義哲学の問いとなります。人間は生きていくうえで、さまざまな状況に生きていて、状況は変化するものの、自らつとめて状況を変化させることができる。しかし、時として「病気にかかり死ぬ運命にある」とか、「自分の意に反して親の事業を引き継がなければいけない」とか、本質的には変化しない状況というものが存在する。それを限界状況と呼び、限界状況を糊塗して逃げる・無視するなどの対応をとるか、絶望と回生によって対処するかの態度をとる。
限界状況に直面して、絶望を感じ回生することにより、人間は自分自身の意識を変革させ、自分自身になることができる。

第三講「包括者」

私があるものを認識するとき、私(主観)があるもの(客観)に対して心を向ける。自分自身を思惟の対象とした場合は、自分が他者となる。自分が思惟するとき常に主観=客観が対となっている。主観のない客観も存在しないし、客観のない主観も存在しない。

しかし存在は全体としては客観でも主観であることもできないので、むしろ《包括者》であらねばならない。そしてこの包括者が分裂して現象としてあらわれる。

というなんとも難しい概念が、この講で出てくる。主観もなく、客観もない、「包括者」とはなんだろうか?
包括者は存在それ自身として考えられた場合は、超越者(神)および世界と呼ばれ、人間自身としてあるものとしては、意識・精神・実存と呼ばれる。
主観=客観を超えて、主客の完全な合一へと到達する時、あらゆる対象性も自我も消滅し、本来の存在が開かれ、そして目覚めたとき、深く汲み尽くすことのできない意味の意識を残すとある。

仏教でいうところの「空」の思想に近いのかと思います。「空」については、以前私が書いた「般若心経」のノートを参照ください。

第四講「神の思想」

西洋における神学と哲学は、神が存在するということと、神とはなんぞやという問題を扱ってきた。

世界の始まりは未知の領域であるし、終わりについても、私たちの世界認識は終結点を見出せないでいる。未知であることの証明は、そのまま神の証明とはならず、神を世界実在に化そうとするものである。

しかしながら、無と非完結性の前に人を導いていくものであればあるだけ、印象深くなり、唯一の存在としての世界内において、この世界には満足しないのだということを表明する衝動を私たちに与える。

かくして、神は知の対象ではないことが明らかになり、ただ信仰するものであることがわかる。この信仰は、世界経験の限界から出ているのではなく、人間の自由から出てくる。自己の自由を悟る人間が、同時に神を確認する。

この講では西洋における神のとらえ方を客観的にとらえたうえで、ヤスパースは神を肯定する有神論の立場をとります。ニーチェとは異なる立場となり、日本人の思想とも違いますが、信仰の領域なので、これはこれでなるほどと思わせる講でした。

第五講「無制約的な要求」

私たちは他者の「こうしてほしい」とか「こうあるべき」という制約ある要求に通常従う。ただ、「これを実現するためには死んでもかまわない」といった無制約的な要求も自己のうちにもっている。

ソクラテスが、政治家から疎まれ、死刑を宣告されて逃げなかったのも、「この世界には命をかける真理がある」とソクラテス内にある無制約的な要求に従い、人間は真理を追究するために人生を投げ出す、強い生き方ができることを証明してみせた。

無制約性は、反省を通じて到達された実存の決断において、はじめて存在する。無制約的なものは、ある人間の生活が最後に安んじてよりどころとするものが何であるかを、またそれが重要であるか、無価値であるかを、決定する。

自分の内側にある、無制約的な要求とは何か?という問いは限界状況に置かれたときに発動させたいですね。

第六講「人間」

人間とは何であるか。身体として生理学で研究され、精神として心理学によって研究され、共同体的存在者として社会学として研究されます。また、私たちは人間を歴史として知ることもできます。

研究対象としての人間がある一方、自分自身は人間であると同時に、自己を本格的に自覚する場合、覚知される研究対象外のものとなる。

自分が自分に対していろいろな要求をもつことを認めるかぎり、私たちは私たちの自由を自覚している。自分に対する要求を満たすか、回避するかは自分に関する事柄で、研究者の論争の対象にはならない。

では、どのようにしたら人間は自由になれるのだろうか?本の中では超越者(神)との関係性により、真の自由を自覚することが滔々と記述されているが、ここでは省略。

講の最後で、「人間であることは人間となることであります。」と締めくくってますが、経験を重視するヤスパースならではの含蓄ある言葉だと思いました。

最後に

主要メッセージは要約したつもりですが、気になった方は本を読んでみてください。後半のテーマは、世界・信仰と啓蒙・人類の歴史・哲学する人間の独立性・哲学的な生活態度・哲学の歴史です。



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