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三島由紀夫が語る「他者」について
1969年学生運動が盛んだった頃、東大全共闘(極左)が三島由紀夫(極右)に討論を申し入れた。その討論が最近Amazon Primeでも鑑賞できるようになったので観てみました。
討論の内容は、「他者とは何か」「自然とは何か」「天皇とは」等々多岐に及び、三島由紀夫はそれぞれの難しいテーマに対して自分の哲学を理路整然と語り、その熱量を感じるだけでも面白い映画ではありました。
一方で、討論の内容を理解するためには引用している思想とか三島由紀夫の本についての前提知識が必要であり、ぱっと聞き流しただけでは理解が追い付かない映画でもあると思います。
本ノートでは、討論の冒頭で三島由紀夫が語った「他者」について、ちょっとだけ踏み込んでまとめてみようと思います。
問(なぜ最初に他者を問うたのか?)
東大全共闘が「三島さんにとって他者とは何かを問いたい」と冒頭に問いかけたのは、興味深い。この討論は闘争であり、お互い暴力を否定していない。暴力を行使すると暴力を返される危険性があるなかで、三島由紀夫は東大全共闘(=他者)をどう認識しているのか?ここから議論が始まるのが、実にスリリングですね。
答(他者を語る前に、人間の根源的な欲求を語る)
他者についての認識を語るまえに、他者との関わりの欲求の根源的部分をエロティシズムを引き合いにだして語ります。
暴力とエロティシズムは深いところで非常に関係がある。他者に対してしか発現しないのが本来のエロティシズムの姿で・・・(中略)相手が意思を封鎖されてる。相手が主体的な動作を起せない、そういう状況が一番ワイセツで、一番エロティシズムに訴えるのだ。これが人間が人間に対して持っている性的関係の根源的なものじゃないかと思います。
答(自身の対極にあるサルトルの他者論を語る)
サルトルは他者を「意思をもった主体」と捉えた。自分も主体をもっていると同時に他者も主体をもっているから、自分は他者の「まなざし」を感じ、他者はどうしようもできない存在(地獄とは他人のことだ)と位置付けます。
自己にむけられた「まなざし」を知覚することから、他者理解ははじまるとサルトルは主張しますが、この理解から生じる自と他の関係は理性的であり、三島由紀夫は非エロティックを起点に他者を理解するのではないと主張します。
答(三島由紀夫の他者論)
他者は、我々にとってどうにでも変更できるような事物(オブジェ)であるべきだと主張する。しかし相手は思うようにならないところに、自分と他者との関係が困難となる。自と他の関係性が生じることは、非エロティックになるわけですが、エロティックでないゆえに暴力の対象とはならず、他者との関係性に対立を求めることになる。
小説家として駆け出した当初は他者を欲してエロティックで世界とかかわろうとしたが、自と他の関係性に入りたくなった。その関係性を希求すると対立する他者というイリュージョンを作っていかざるを得なくなる。
それで三島由紀夫は共産主義を敵(=イリュージョン)とすることに決めた。東大全共闘を主体性ある他者と考えると言い放った。
わたしなりの解釈
「意思をもった主体」を主張するサルトルを真っ向から否定しているかのようにみえて、最後は「意思をもった主体」の解釈をもって東大全共闘に宣戦布告するのでちょっとわかりにくい。サルトルと何が違うかというと、他者理解の起点が違うのではないかと考える。
理性を起点に「意思をもった主体」としての他者を理解しようとしたのがサルトルである一方で、三島由紀夫は人間の根源(エロティック)を起点に「意思をもった主体」である他者を理解しようとしたところに違いを認めます。
まとめ
三島由紀夫の小説は何冊か読みましたが、本人影像で思想を聞くのは初めてでした。三島由紀夫の思想については賛否両論ありますが、人間の欲求というものに目を背けず、他者とも全力で関わろうとする熱量は、見習うべきところがあると感じました。
機会あれば、他の論点についてもまとめてみようと思います。
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