魚と葦

先人の言葉が残っている今を生きれている事に、非常に有難いと思える。
老子の教えは、学校教育の漢文の授業でも扱うほど。しかし、その大切さに気づいたのはここ数年前のことだ。

「授人以魚 不如授人以漁」

「人に授けるに魚を以てするは、人に授けるに漁を以てするに如かず」と読む。

「人に魚を授けることは、漁の仕方を教えるに及ばない」
という意味だ。

数学教育において、私はこの言葉についてよく考えさせられる。
いや、数学教育だけでなく教育全般にいえるだろう。

数学を公式暗記として、指導する教師も多く目にする。
現状、ちょっとした試験ではある程度対応できる。
しかしそれは、「ある程度」にすぎない。
応用も効かず、いずれ忘れ去られてしまう。

私の立場は、「公式暗記否定派」だ。
もちろん、使用する場面ではこれは有効であるし
例えば、加法定理では
「咲いたコスモス、コスモス咲いた」で式をつくる。
しかし、
この式は、どのような意味合いを持たせることができるのか。
この式は、どのように導出できるのか。
などを考える工程にこそ数学の面白さや美しさがあると思っている。

ある論文の中に、「わかる」ことについて、銀林先生はこんな事を言っている。
わかるとは、
・やり方(解き方)がわかる
・なぜそれでできるかがわかる
の2つある。
前者は、手続的知識とよばれ、「できる」こと。
後者は、概念的知識とよばれ、「理解している」こと。
これは、どちらが良いという話ではない。
どちらも相互的に働きあって「わかる」ということなのだ。

数学暗記は、この手続的知識だけに焦点を当てているように思えてならない。
大袈裟かもしれないが、これが数学嫌いを生み出し、「数学=数字」「数学=計算」のような概念を構築させているのだろう。

私が思うに、数学は
・なぜかを考える
・どのように解決できるかを考える
・どのように表現するか伝えるかを考える
のような「思考」の学問であると思っている。

「思考」を放棄してはならない。
知的好奇心のままに、疑問を持つ事を忘れてはならない。

-人間は考える葦である。

考えなければ、私たちはただの葦に過ぎないのだから。

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