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万葉仮名の発音と文章表記の歴史

漢字は四世紀ごろ朝鮮半島の百済を通じて伝えられました。

ただし、それ以前にも九州北部を中心とする交易が盛んな都市では漢字が常用とされ、現地人との交流も盛んだったこともあり、当時の言葉は大陸の影響が強かったと考えられます。

これは明治維新以降(遡れば南蛮貿易の影響)から現在に至る日本語の中のカタカナ語の変化にもまったく同じ変化を辿っているといえます。外来語が当地に広まった際も最初は完全なラテン語標記ではなく、輸入された語句に和文に翻訳し、日本語の意味を含ませておりましたが、発音を損ねることなく日本人がコーヒー(珈琲)やベイスボウル(野球)などの舶来文化を漢字とカタカナを混ぜて宛て表記をした経緯と同じです。

この時代も万葉時代も日本語の読みと中国語の発音を漢字に当てはめてどう折り合いをつけるかというのに苦労したようで、その様子が八世紀の始めに編纂された古事記(和銅五年)の太安万侶が序文に記した筆録の工夫からも読み取れます。

於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者、謹隨詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。卽、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。

これにより「言意の並びを明らかにして、文を敷き句に講ずる」とし、「音を重ねる文字と事の趣旨に合う」ように一句の中に音訓を交えたとして、稗田阿礼(柿本人麻呂という説あり)と協議して注釈を設け、当時の漢文の中にある漢音、呉音を和文に表記、そして日本語の意味になる様にさせるというとんでもない辻褄合わせをしていました。他国の発音と文字と文書の意味を風情を損ねることなく日本語でエクスキューズするわけですから、当時の工夫と苦労が忍ばれます。

藩政時代に杉田玄白などの蘭学者たちが資料のない中で、ポルトガル語の翻訳に苦労した話は有名ですが、それ以上の大変さだったと考えられます。

さて万葉集の歌詞表記では「呉音訓み(ごおんよみ)」の漢字が用いられます。(呉音とは建康(今の南京市)付近の漢字音で、漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音。中国語の中古音の特徴を伝えている。ただし、万葉集の時代は百済から仏教が輸入されたのもあり、一部朝鮮半島の訛りのようなものも混ざっており、音の曖昧さもあって学術的な分類は明確ではない)

その例に挙げられるのは、孝謙天皇難波宮出土の「難波津の歌」木簡(練習用の木札、削って再使用されていた)には百人一首で有名な「さくやこのはな」の和歌の一部です。

万葉集の標記形式の具体例としては

君之行 気長成奴 山多都祢 迎加将行 待尓可将待

原文は漢詩の文体をとっていますが、和文で詠むためにこのような表記をしました。

「君が行き 気長くなりぬ山尋ね 迎えか行かむ 待ちにか待たむ」

どうでしょうか。

訓読と音訓が助詞にも混ざっており、今でも古文が分かる人にはなんとなく理解できるように大和言葉として成立されています。

この人麻呂の和歌は実は中国語で読んだときに「四六駢儷体」となり、漢詩特有の流れるようなリズムになりますが、和文に直しても我々に意味が通じるような工夫がなされています。

当時は国が指定した常用漢字もなく、用字を引用し勝手に解していたため、文字の規則、法則というものが非常に自由奔放でありました。

例えば万葉集の中には「戯書(ぎしょ)」といい数字の組み合わせや擬音などで文字を組み合わせて表記していた例があります。(例 一六-しし 八一-くく、馬聲蜂音(擬音)、一伏三起(ころ)、二山-出といった表現)大半は当時の漢詩にも同じ表現がありますので、引用だと思われますが現在では理解しにくい文体です。

一方で祝詞で使われる宣命体では助詞にあたる万葉仮名を小さく表記し、ほかの漢字の意味を日本語訓みに当てています。(現在は神官が唱える祝詞に使用されています)

藩政時代になりまして漢学者、賀茂真淵が構文や振り仮名の比較をした結果、平安時代の中国語の発音と和文の表現の違いや、これに音韻の書き分けがあることに気が付き(当時は母音八音)これを弟子の本居宣長らが古事記を紐解いていくうちに明らかにし、特殊仮名は歴史的仮名遣いのようなかき分けではなく、そもそも発音が異なっていた(唐音十三音)ことが分かっていくのです。

これは日本表音文字のカタカナやヘボン式ローマ字表記で英単語の発音を表記させることの変遷に似ています。当て字に大和言葉を使用すると日本語なのでどうしても日本の音に寄せてくる。そこで厳密な発音を表記するためアルファベットを使用したヘボン式ローマ字により発音を分かりやすくしたが、どうしても異音を英単語のフィルタを通した翻字なので、文字数が多く意味が通じないなどの都合が悪い時もあり、外来語の表記については野球(baisubouru、ベイスボウル、ベースボール)のような変化するようになりました。

最近の音声学の研究が進んだことより当時の発音の正確さを例に取れば、蝶蝶は現在の「ちょうちょ」から「ちょうちょう」さらに「てふてふ」に、これが奈良時代や平安時代の初期には「でぇえっぷでぃえっぷ」と遡れるらしいですが、少なくとも宣命体祝詞や歌舞ではこのような促音、破裂音は聞くことはありません。

おそらくこれらは仏教とともにやってきた当時の外来語の影響がかなり強くあったのだろうと思われます。

発韻の正確さを取るか、文字の表意をとるかで様々な葛藤があったなかで日本語はそのどちらも犠牲にすることなく、うまく溶け込むことで生き残ってきた言語だということがわかります。

これからも言葉と発音は変わっていくのかと思われます。以前は母音七音でしたが、現在は母音があいうえおの五音で分類され、十三音あった上古の発音を聞き分けることが難しくなっています。そのため後世の人が困らないように記録をしかと残しておく必要があります。

音を残すということは文章を残すことよりも難しいですが、「大和国は言霊の幸う国」と申しまして、我が国は言葉を大切にする文化があります。我々も日頃の言葉を音便に気を遣いながら生活してみてはどうでしょうか。

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