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妄想人間シアター第三話 「迷走 秋山龍介」

 鴻池光広の次は、秋山龍介の脚本だった。
 秋山は、鷲鼻と切れ長のあごが特徴的な紳士前とした風貌の男で、眼光が鋭いので見ようによってはなにがし組の組員とも見えかねない。
 やけに自信ありげな含み笑いを浮かべて、彼は私に原稿を渡した。

       *
 カッーー。
 カツカツカツカツカツカツ!
 女のハイヒールの音が聞こえた。
 あっちか!
 男は逆をつかれて振り返る。
 女の細い背が、薄暗い廊下の角を曲がるのが見える。
 男は慌てて追う。
 上着を脱ぎ捨て、廊下を曲がる。
 パッ、と真新しい廊下が視界に広がる。
 女はーー。
 女の姿は、再び見えない。
 耳を澄ます。なにも聞こえない。
 目を凝らす。手掛かりはなにもない。
 しんと静まり返った、一本の廊下。
 突き当たりは壁。両側には三つずつの扉。
 半ばほどに階段もある。だが、靴音は急に聞こえなくなった。階段を使ってはいまい。この階のどこかに、隠れているに違いない。
 男は声を涸らす。
 どこだどこだどこだどこだどこだ、どこに隠れているんだーー。
 さっさと出てこい。
 しんと静まり返った、一本の廊下。
 ただ、自分自身の声が虚しくこだまするだけ。
 悪かった、もう怒ったりはしない。だから出てきてくれ。確かに俺にも落ち度があったかもしれない。もう一度、冷静になって話し合おう。だから早く出てきてくれ。どこにいるんだ? 俺にはお前が必要なんだ。愛しているんだ。もしお前がいなかったら、いなかったら……。それを思うと……。
 男は泣き落としにかかった。
 よく鳴らそうと、鼻を強くすする。
 しかし、なにも答えはない。
 やはり廊下は、しんと静まり返り、鼠一匹動く気配はない。
 くそう……。このアマ、どこに隠れてやがるんだ。
 男は早歩きで廊下を突き進み、乱暴な動作で次々に扉を開け始めた。
 見つけたらただじゃおかないぞ、なめやがって。俺に盾突いたらどうなるか、思い知らせてやる。
 鼻息を荒立て、すべての部屋を探しまわる。
 それでも、女は見つからない。
 どこへ隠れやがったんだ……。
 男はぎらぎらした目で、壁や床や天井をしらみつぶしに睨みまわす。
 廊下で立ちすくみ、両耳に手を添えてみる。
 …………あっ……!
 わずかだが、くぐもった女の声が、階段の方から聞こえた。
 下の階からだ。男は走り寄って階下を覗く。
 白いハイヒールが、踊り場の脇に無造作に転がっていた。
 くそっ!
 男は慌てて、階段を下りる。
 パッ、と真新しい廊下が目の前に広がる。
 さきほどと同じような造りの廊下だが、一つだけ、かすかに隙間の開いた扉が目に留まった。 赤い、しゅくじょのマークがついている。
 女性用の化粧室だ。
 男は堂々とその扉を開け、突き進む。
 中は無人である。
 並んだ五つのトイレの一番奥の扉から、もぞもぞと人の動く気配を感じた。
 そこか。
 バッと、男は扉を開く。
 女はーー。
 女の姿は、あられもない。
 清楚な白のブラウスに紺のスカートを着ていた。
 しかし、ブラウスの胸元は引き千切られ、あらわになった白い乳房は、武骨な手によってつきたての餅のように形を崩されている。スカートはスカートで、踝から下しか隠しておらず、中に穿いていたものも、太腿の中腹までずり降ろされていた。
 女は狭いトイレの壁に両手をつき、玉のような尻を、躍るように揺らしている。
 そしてその尻の先には、眼鏡を掛けた中年の男が腰を密着させていて、これまた躍るように、前後左右に揺れている。
 女は顔を歪め、あっ、あっ、と呻きをあげる。
 中年の男は興奮し、唇を突き立て、息を弾ませる。
 二人とも、扉を開けた男の存在には気がついていない。
 くそう、くそう、この野郎、どうせこんなことだろうと思った。人の女を、人の妻を、くそう、妻も妻だ、夫の目の前で、なんてことを、子供の世話はどうした、母としての誇りはないのか、よりによってこんな親父と乳くり合うなんて、くそう、くそう。
 いつのまにか、男は薪割りで使うような大きな斧を両手に持っていた。
 そして、念仏でも唱えるように急に無表情になって、斧を一文字に振り上げ、情交中の二人を、ざくざくと刻み始めた。
 二人は切り刻まれながらも、快感をむさぼろうとするように、両目を閉じて、お互いの下半身を擦り合わせていた。
 やがて、洋式の便座とタイルの壁は、鮮血で真っ赤に染めあげられた。
 さきほどまで痴態を繰り広げていた男女は、無数の肉片となり、血の海の中で混ざり合い、もはやどれが誰のどこの部分であったかなど判断がつかない。
 ただ、長い睫毛のついたままの眼球が一つ、斧を投げ捨て、すっきりした男の表情を映し出している。
 ざまあみろ。
 男はそう掃き捨てて、女子トイレを後にした。
 廊下で、脱ぎ捨てたはずの上着の襟と裾を整える。
 返り血は浴びなかったようだ。良かった、良かった。
 にっこり笑って、顔を上げる。
 前方から、女が歩いてくるのが見える。
 白いブラウスに、紺のスカート。
 妻だ。
 女は男に気づいて、慌てて背を向ける。
 くそう、生きていたのか? 騙された。どこにいやがったんだ。俺に内緒で、どこで何をしていやがったんだ。
 男は女を追う。
 女は階段を上る。カツカツカツカツーー乾いた靴音が響き渡る。女は白いハイヒールを履いている。
 廊下の中腹に出る。男は息を整える。女はどちらへいった? 右か、左か?
 右を見た。
 突き当たりの壁に、何者かが張り付けにされている。蝶の標本のように、一本一本、巨大な釘で四肢を貫かれている。
 小柄な体だ。服もすべて脱がされている。子供のようだ。では誰の子供か?
 近寄って顔を凝視してみたが、そこだけぼやけてよく見えない。
 別に子供の顔がどうなっているというわけではない。男が子供の顔に目を移すと、不思議と急に、瞳に膜がかかったように視界が滲んでしまう。
 目眩がした。
 カッーー。
 カツカツカツカツカツカツ!
 女のハイヒールの音が聞こえた。
 あっちか!
 男は逆をつかれて振り返る。
 女の細い背が、薄暗い廊下の角を曲がるのが見える。
 男は慌てて追う。
 上着を脱ぎ捨て、廊下を曲がる。
 パッ、と真新しい廊下が視界に広がる。
 女はーー。
 女の姿は、再び見えない。
 耳を澄ます。なにも聞こえない。
 目を凝らす。手掛かりは見えない。
 しんと静まり返った、一本の廊下。
 突き当たりは壁。両側には三つずつの扉。
 半ばほどに階段もある。だが、靴音は急に聞こえなくなった。階段を使ってはいまい。この階のどこかに、隠れているに違いない。
 男は声を涸らす。
 どこだどこだどこだどこだどこだ、どこに隠れているんだーー。
 さっさと出てこい。
 しんと静まり返った、一本の廊下。
 ただ、自分自身の声が虚しくこだまするだけ。
 悪かった、もう殴ったりはしない。だから出てきてくれ。確かに俺も勘違いしていたかもしれない。もう一度、冷静になって話し合おう。だから早く出てきてくれ。どこにいるんだ? 俺にはお前が必要なんだ。子供はどうするんだ? もしお前がいなかったら、あいつと俺は……。それを思うと……。
 男は、また泣き落としにかかった。
 よく鳴らそうと、鼻を強くすする。
 しかし、なにも答えはない。
 やはり廊下は、しんと静まり返り、鼠一匹動く気配はない。
 くそう……。このアマ、どこに隠れてやがるんだ。
 男は早歩きで廊下を突き進み、乱暴な動作で次々に扉を開け始めた。
 見つけたらただじゃおかないぞ、なめやがって。俺に反抗したらどうなるか、思い知らせてやる。
 鼻息を荒立て、すべての部屋を探しまわる。
 それでも、女は見つからない。
 どこへ隠れやがったんだ……。
 …………あっ……!
 廊下で立ちすくんだ男の耳に、わずかだが、くぐもった女の声が聞こえた。
 上の階からだ。男は階段を見上げる。
 白いハイヒールが、踊り場の脇に無造作に転がっていた。
 くそっ!
 男は慌てて、階段を上る。
 パッ、と真新しい廊下が目の前に広がる。
 さきほどと同じような造りの廊下だが、一つだけ、かすかに隙間の開いた扉が目に止まった。 赤い、淑女のマークがついている。
 女性用の化粧室だ。
 男は堂々とその扉を開ける。
 中は無人である。
 並んだ五つのトイレの、奥から二番目の扉から、もぞもぞと人の動く気配がした。
 そこか。
 バッと、男は扉を開く。
 女はーー。
 女の姿は、あられもない。
 清楚な白のブラウスに紺のスカートを着ていた。
 しかし、ブラウスは背中を隠す役割を放棄し、露になったブラジャーのホックは外されていた。スカートはスカートで、男の武骨な指が深く侵入するのを許し、後ろからねっとりとかき回されている。
 女は、便座に座る中年の男の股間に顔をうずめ、ふしだらな上下運動を繰り返している。ときおり首を止めては殺した声をあげている。
 中年の男は、右手で女のスカートの中を尻から荒らし、左手で女の髪を撫で、恍惚に口の回りを濡らしている。
 二人とも、扉を開けた男の存在には気がついていない。
 くそう、くそう、この野郎、どうせこんなことだろうと思った。人の女を、人の妻を、くそう、妻も妻だ、夫の目の前で、なんてことを、子供の世話はどうした、母としての誇りはないのか、よりによって子供の担任と浮気をするなんて、くそう、くそう。
 いつのまにか、男は木材を切断するチェーンソーを両手で抱えていた。
 そして、賛美歌でも歌うように急に無表情になって、チェーンソーを抱え上げ、情交中の二人を、ぎりぎりと刻み始めた。
 二人は切り刻まれながらも、快感をむさぼろうとするように、両目を閉じて、お互いの下半身を愛撫し続けていた。
 やがて、洋式の便座とタイルの壁は、鮮血で真っ赤に染めあげられた。
 さきほどまで痴態を繰り広げていた男女は、無数の肉片となり、血の海の中で混ざり合い、もはやどれが誰のどこの部分であったかなど判断がつかない。
 ただ、長い睫毛のついたままの眼球が一つ、チェーンソーを投げ捨て、さっぱりした男の表情を映し出している。
 いい気味だ。
 男はそう掃き捨てて、女子トイレを後にした。
 廊下で、上着の襟と裾を整える。
 返り血を少し浴びたようだった。まあ、いいか。
 にんまり笑顔をつくって、顔を上げる。
 前方から、女が歩いてくるのが見える。
 白いブラウスに、紺のスカート。
 また、妻だ。
 女は男に気づいて、慌てて背を向ける。
 くそう、まだ生きていたのか? 騙された。どこに隠れてやがったんだ。俺に内緒で、誰とどこで何をしていやがったんだ。
 男は女を追う。
 女は階段を上る。カツカツカツカツーー乾いた靴音が響き渡る。女はやはり白いハイヒールを履いている。
 廊下の中腹に出る。男は息を整える。女はどちらへいった? 右か、左か?
 左を見た。
 突き当たりの壁に、何者かが張り付けにされている。蝶の標本のように、一本一本、巨大な釘で四肢を貫かれている。
 幼い顔だ。肌もきめが細かく、水気を帯びている。子供のようだ。では誰の子供か?
 離れて全体を凝視してみたが、ぼやけてよく見えない。
 別に子供の体がどうかなっているというわけではない。男が子供の体全体に目を移すと、不思議と急に、瞳に膜がかかったように視界が滲んでしまう。
 また目眩がした。
 カッーー。
 カツカツカツカツカツカツ!
 女のハイヒールの音が聞こえた。
 あっちか!
 男は逆をつかれて振り返る……。
 (以下省略)

        *
 
 読み終えて、嫌悪感が顔に出た。
「……どうした先生?」
 秋山が意外そうな顔で私を覗きこむ。
 分厚い原稿だった。分厚かったが、それはほとんど同じシチュエーションの繰り返しであった。
 男が追い、女が逃げ、トイレの中で女と中年の男が淫蕩にふけり、男がその二人を切り刻む。しかし女は再び現れ、男はまた女を追いかけ、淫蕩にふける二人を見つけて、刃物を変えて刻む。
 男と女は夫婦で、中年の男は女の浮気相手のようだった。壁に貼り付けにされる顔のぼやけた子供も出てくる。
 性描写や言葉回しに若干の違いこそあれど、ひたすらその繰り返しである。
 起承転結も序破急もありはしない。ただ何十回とそのシチュエーションが展開し続ける。まさに迷走という題名はぴったりの内容だ。
 しかしながら、私はひどい嫌悪感を覚えずにはいられなかった。
 妻帯者として妻が浮気をし、その妻を殺すというシチュエーション自体に吐き気を覚えたのももちろんだったが、それでいて、どこか既視感さえ感じてしまう。そのことも嫌悪の原因になっていた。
「いままで暖めてきたテーマをうまく表現できたと思うんだが」
 テーマ? そんなものがあるのか。私はそれがなにかと聞き返してみる。
「読めばわかると思ったが。まあ、いい。私はね、先生、自分がこの施設に入れられたときから、精神病と診断されて入院させられたそのときから、自分がなぜそうなってしまったのかを、ずっと考え続けていたんだよ」
「……そうなんだ。それで?」
「わからないかな。作品によく反映されていると思うんだが」
 私は皆目わからなかったので、すまなそうに首を横に振った。
「では、仕方ないから発表しよう。私はね、先生。精神病には個人の性的問題が深く関わっていると考えているんだよ。人格形成時期の性的問題、または性的コンプレックスなど、そういった個人の性に関する問題が原因になって、人は精神がおかしくなるんだ」
「それは、たしかフロイトの学説に近いんじゃないか」
「そう、その通り。知っているとはさすが先生だ。フロイトは偉大な学者だ。彼の書物を読んだとき、私はまさに目からうろこが落ちた思いがしたよ。しかし彼の考えは、あくまで夢の持つ意味が性的問題と結び付いているというものだった。私のは少し違う。私はフロイトの考えをさらに広げてみたのだ。単に夢だけではなく、精神病患者がとる不可解な行動や妄想の原因のすべてに、性的問題が潜んでいるというふうにね。その考えでいうと、例えば吉武!」
「は、はい?」
 とぼけた顔をして、吉武が素っ頓狂な声をあげる。
「お前は電気コードのような長い紐状のものを見ると、それが蛇に見えて、狂乱してしまうことがある。そうだな?」
「は、はあ。あっ、い、いや、僕は確かに蛇がいると思っているんだけど、まわりの人がそれは紐だ、電気コードだって言うんだ。それでよくよく見てみると、本当に電気コードだったりするんですよね、これが」
「蛇。吉武がよく見間違えてしまうという蛇とは、フロイトの心理学では往々にして男根の象徴として解釈される」
「だ、大根?」
「その男根の象徴である蛇を恐れること、そして紐状のものと男根という組み合わせ。そこから考えていけば、おのずと吉武が精神病になった理由は突き止められるはずだ」
「うーんと……わかりません」
 当の吉武が、さっそく降参した。私も、いま一つ見当がつかない。
「まさか吉武は、巨根持ちのSMマニアに虐待された幼児体験でもあるっていうの?」
 スミレが、ばかにしたような笑いを浮かべながら、そう返した。
「ばっ、ばかな! そんなことあるわけないよ、スミレちゃん」
 吉武は両手を振って、必死に否定する。
「いや、その通りだ」
 秋山は自信満々にうなずく。
 私はあごが落ちる思いがした。吉武も同じ思いだったことだろう。秋山の目は本気なのだ。
「そして、川野君。君はときどき体全体が痒くて痒くて仕方ないときがあるね?」
「ああ。確かにそうだけど……。あんまり意識させないでくれ。また痒くなってくる」
 川野はあごの下を掻く速度を少しだけ早める。削られた皮膚の残骸が、白い粉となって床の上に飛び散った。
「では、君はどうやってその痒みを止める?」
「それは……なんとか薬で、さ」
「それは違うだろう。ねえ、平さん?」
「えっ? な、なにが?」
 ふられて平は、少し冷や汗をかいている。
「おかしいな、たしか川野君と同じ部屋の平さんから教えてもらったはずなんだが」
 川野はすばやく平を睨んだ。遅れず平は目をそらす。
「川野君、君は体全体が痒くなったとき、決まって最後に自分の陰部を掻きむしるんだ。そして射精する。そうしたら不思議となぜか痒みも治まっている」
 川野は悔しさ半分恥ずかしさ半分といった表情でうつむき、唇を噛む。離れた位置で、巡査が笑っているのが、かすかに聞こえた。
 結局、私には秋山の言うテーマが、作品にどのように表現されているのか理解しがたかった。彼の弁舌は、むしろ作品とは関係ない方向に傾いていっているように思える。
「その行為も実にフロイト的だ。私が解釈するに、おそらく君は青年時代の中で、うかつに自慰をすることができないような環境にいたんだろう。例えば、狭い家で女性の家族ばかりとの生活だったとか、あるいは学生時代に長い寮生活をしたことがあるとかね。そして君自身も自慰行為に悪という観念を抱いて育っていて、つとめてそういった行為をしないようにしないようにと心掛けてきた。ところが、そういうのは生物が本来、種族保持のために備えている本能だ。頭では拒否していても体は自然と動いてしまう。だから葛藤が生まれる。それを正当化しようとしているうちに、君は無意識のうちに掻くという行為を行い、その反作用として、性的不満がつのってくると体のあちこちから……」
「でもさあ、秋山さん」
 一人で盛り上がっている秋山の講釈を、スミレが、右の眉根を不満そうにつり上げて遮る。
「事実、吉武が巨根持ちのSMマニアに虐待されたことがあったとして、川野が体を掻くのが性的問題と関係あったとして、さあ、それで二人の病気は治るわけ?」
「もちろんだ。心の構造はとても複雑だが、それを解きほぐして原因を突き止めれば、治療のしようもある」
「でも、吉武が虐待を受けたことがわかったとしても、その事実が浮かび上がるだけで、それを取り除くことはできないじゃない。逆にそれが知れることで病気が悪化しそうなもんだわ。気が狂うくらいの出来事なんて、忘れたままの方が本人のためなのよ。人の性格の根本なんてそう簡単に変えられるものじゃないでしょ。それに、たしかフロイトだって、臨床試験ではそれほど結果を残してないって読んだことがあるわ。秋山さんの言うのだって、あやしいもんよ」
「な、何を君は……」
 スミレの力強い台詞の前に、秋山は口ごもる。彼女の口調には、まるでよどみがない。
「だったら無駄じゃない。人のプライベートを暴くような真似をして、まるで低俗なワイドショーみたい」
「……う、うるさいな、戸川君。だいたい君の性の奔放ぶりも呆れるほど興味深いと思ってるんだよ。君はあの、事務員の大槻とも、関係を持ったらしいじゃないか」
 一同に動揺が走った。
「本当かい、スミレちゃん?」
 川野が、あごを掻く手を止めて、尋ねる。
「いやあねえ、みんな。軽く口でサービスしただけよ」
 スミレは赤い舌を出し、上唇を嘗める。
「あいつ私の前科を知っているもんだから、びくびく震えながらファスナーを下したっけ。射精く前に私が目を合わしたら、怖くなったらしくて逃げ出したのよ」
 うふふと、スミレは笑った。
「どうだ。きっと君の深層心理の深くにも、なにかしらの性的コンプレックスがあるんだ。無意識のうちにそれから逃れようとして、君はありとあらゆる男を誘っては淫乱な行為を繰り返すんだ」
「違うわ、ただセックスが好きなだけよ。それに男だけじゃなくて、女ともしたことがあるわ。あなたの都合のいいように考えないでちょうだい。私はただ、自分が気持ちよくなりたいだけなの。だいたいそういう秋山さんだって、私と何回かしたことがあるじゃない。あれは快楽を求めていたからじゃないの? 秋山さんこそなにかしらの性的コンプレックスがあって、それから逃れようとして私とセックスしたの? それともまさか、私を愛していたからとでも言うつもり?」
 いじめるような視線で、スミレは秋山を見下す。
 秋山は必死に食い下がろうと、口をもごもごと動かしている。
「ちょっと、待て」
 背後で、砂利を噛むようなだみ声がした。
「戸川、貴様は病院の職員までたぶらかしたのか」
 市川巡査である。いままでなにも干渉してこなかった彼が、不意に、文字通りの重い腰をあげた。
 巡査は、体全体が私などより二まわりも太い。何の間違いか、面長の顔に、長い睫毛の付いた瞳だけが、きらきらと異物のように浮いている。二メートルはあるかという長身で、警帽のようなものをかぶり、紺色の軍服は鍛えられた胸筋でぴちぴちに伸びきっている。まるでフランケンシュタインに少女漫画の瞳をはめ込んだような、不気味な印象の男である。
 そして、その丸太のように太い腕の先の方では、鈍色のピストルが、鋭利な牙のごとく戸川スミレに向けられ、輝きを放っていた。
「なによ」
「患者同志でどうこうするぶんには俺も目をつぶってきたが、職員は問題だ」
 巡査は、のしのしと恐竜のように近づいてくる。
 スミレは意味ありげに、私に目配せをした。
 思い出した。
 たしか大槻が妄想癖のある警官を入院させたとか言っていた。それが彼か。それにしてもプロレスラーのような体格だ。もし暴れだしたりでもしたら、私などひとたまりもあるまい。取り押さえるのに五、六人は必要としそうだ。
 それに加えて、手に持っているあれは一体なんだろう? 本物のピストルだろうか? それともただのおもちゃ?
 またもやスミレが、私の心を覗いたかのように、耳元に顔を寄せて、囁く。
「心配しないで、舛添先生。あれは本物の銃じゃないわ。あいつをここへ入院させるために、仕方なく渡したモデルガンよ。あいつを納得させるために、上司だか家族だかが渡したの。もっとも玉は出るようだから、当たれば怪我ぐらいするでしょうけどね」
「なにをこそこそ言っている」
 巡査は、私と戸川スミレの間に入ってきた。
 銃口はあいかわらず、彼女に向けられている。
「なによ、銃なんかかまえてどうする気さ。だいたい声をかけてきたのは大槻の方なのよ。大槻の方から、お前これが好きなんだろうって、自分の貧粗なものをさらけ出したんだから」
「うるさい。そんなことは関係ない。事実確認がとれたらちゃんと大槻にも罰を受けてもらう。患者に淫らな感情を持つとは、職員として失格だからな。だが、だからといってお前にまったく罪がないとも言わさない。病院内での性行為は禁じられているんだ。そこにいる五人の男たち全員と、お前はベッドをともにしたことがあるだろうが」
 その言葉に驚いて、私は五人の男たちに目を移す。
 吉武は怯えて、肩を震わせている。
 川野は顎をぽりぽりとかきむしっている。
 平はまだ私のことを疑り深い目で見ている。
 秋山は目を伏せながら、唇を尖らしている。
 鴻池はうつむいて、にやけている。
「出歯亀」
 スミレは表情一つ変えずに、一言そうつぶやいた。
 巡査の顔が引きつった。
「あ、あの……」
 私はこの場の空気を変えようと、唾液をひとつ飲み込んでから、なんとか発言する。
「込み入った事情があるのはわかるんだけど、その、練習の時間は限られているんだ。その件に関してはまた後からというわけには……」
 言い終えぬうちに、少女のように澄んだ瞳で巡査に睨まれた。ぞっとした。
「部外者が口を挟むな。これは院内の規律の問題だ」
 迫力はそれほどないが、とてもおぞましい。巡査の顔に、まるで童話に残酷性を見出だしたときのような不快感に襲われてしまうのだ。私は二の言葉を継ぐことが出きなかった。
 代わりにスミレが、挑発的な言葉を口にする。
「大方自分だけ私に相手にされないもんだから妬んでいるんでしょう? でも巡査と寝るのだけはごめんよ。私にもねえ、相手を選ぶ権利ってのがあるの」
「くだらないことを。公務中だ。お前の色仕掛けになど引っ掛かるものか」
 銃の先端は、スミレの均整のとれた柳眉の中心に据えられたままである。
 スミレは、フンと鼻を鳴らした。
「巡査。巡査のその銃に対する信頼感に対してだが」
 すると横から、唐突に口を開いた男がいた。作品のテーマについて語るのを止められたままの、秋山である
「つねづね考えていたことなんだが、銃というのもやはり、フロイトの心理学では男の性器の象徴として扱われるんだ」
 秋山は真面目な教師のように取り澄ました顔で、雄弁を振るう。
「しかし巡査の場合は、単に男根の象徴だけとは言えないだろう。別な見方をすれば、男根とは父親、父性の象徴としても受けとれる。銃をことあるごとに振りかざし、我々に権威を自己主張する巡査の行為は、まさに古き家長制度にのったものだ。そこで私は考えたのだが、巡査の銃に対する信頼は、つまりは絶対的な父権に対する信頼だ。しかし逆にいうと、巡査は銃に頼らなければ、その父権を振りかざすことができない。それはなぜか? 答えは簡単だ。巡査は自分の身体のある部分にコンプレックスを感じていて、それを補うために銃を必要としているんだ。銃がなければ、絶対的な父権が成り立たない。おそらく肉体を鍛えたのも同じような理由からだろう。では、そのコンプレックスとはどこか? これも巡査を見れば一目瞭然だろう。そう、それは巡査の隆々とした肉体には不釣り合いな、少女のような二つのーー」
 ぱん!
 いきなり、秋山の言葉を断絶して、紙袋が破裂したような乾いた音が、室内に響いた。
 同時に、秋山の額にパチンコ球大の小さな窪みが現れ、彼の体は大きくのけ反る。
 衝撃で、座っていた椅子の前脚は床から浮き、ゆっくりと、スローションのように後ろへと傾いていく。
 赤い糸のような線が数本、秋山の額から宙へとたなびいた。
 返り血が、巡査の軍服を染める。
 巡査の腕の先は、いつのまにかスミレから秋山の前に移動している。
 秋山は得意げな表情をしたまま、床にドスンと倒れた。後頭部をもろに打ち付け、そのままぴくりとも動かない。
「な、なんてことを!」
 私は慌てて立ち上がる。
「早く、事務所に連絡を。ひ、非常電話は……ええと、どこに……」
 おろおろと部屋中を見回すが、どこにも電話らしきものは見つからない。
 その代わり、私の視界には、重い一撃とともに、白い火花が散った。
 勢いよく、座っていた椅子の向こう側にまでふき飛ばされる。薄暗い天井に、棍棒のような巡査の腕の残像が重なる。
  そのままあお向けに床の上に倒れ、私はしばし呆然となった。やがてズキズキとした痛みをうなじに感じながらも、この不条理な攻撃に憤慨してきた。
 ……なぜ、私が殴られるんだ?
 よそ者がどうのこうのと罵っている濁声が、遠くの出来事のように聞こえてくる。右耳も少しいかれたようだ。
 いい加減にしてくれ。私はこんなことをしたくてここにきたわけじゃない。
 なんなんだこいつらは? 支離滅裂だ。理解不能だ。本当に演劇などやる気あるのか? 自分本位にもほどがある。ましてや暴力など最低だ。
 右頬もちりちりと、熱くほてっている。
 痛みと情けなさに誘われて、私は涙が零れそうになった。立ち上がる気力もなく、子供みたいに必死に涙をこらえる。
 やっぱりこんな仕事引き受けなければよかった。所詮、かれらは病人なのだ。演劇などするのには無理な輩だったのだ。
 もうやめよう。大槻に会ってこの件は断ろう。別な誰かに任そう。
 そもそも私には、演劇を指導するだけの技量がなかったのかもしれない。だから三年間も職にありつけなかったんだ。だからどの劇団も私を受け入れてくれなかったんだ。
 そろそろあきらめる潮時なんだろうか。
 そこまで考えて、不意に妻と息子の顔が頭の中に浮かんだ。
 いや、そうじゃない。そんな考えではだめなんだ。もうすぐ彼らがここにくるんだ。こんな体たらくじゃだめだ。父親としての威厳など、丸潰れだ。
 こんなことでは……。
 思いに反して、なかなか起き上がる気力はわいてこなかった。そんな私のすぐ隣に、また別の誰かが、埃を上げる勢いで倒れこんできた。
 びっくりして、その場を這って逃げる。
 今度は誰が巡査の被害にあったんだ?
 私はうんざりして顔を横に向けた。
 長い睫毛がある。大きく武骨な顔。私は自分の目に映っているものが信じられなかった。
 それは、市川巡査その人の顔だ。
 白目をむき、完全に意識を失っている。あごの形が崩れ、赤紫にうっ血していた。
 私は、彼の飛んで来た方向を見る。
 そこでは、戸川スミレが椅子から立ち上がり、大胆にも、白い右足を高々と蹴り上げている。
 一流の舞踏家のように、綺麗な型で静止している。尖った赤いハイヒールのつまさきは、勝利の余韻を味わっているのか、いまだ巡査に向けられていた。
 彼女の股間がー―。
 私の位置からは、しなやかな太腿に隠れてよく見えない。
 きっと、なにも穿いていないに違いない。
 卑しくもそこを覗こうと動いた私を嘲笑うかのように、彼女はすうと膝を折り畳んだ。そしてひとり、悦に満ちた不敵な笑みを浮かべて、私に告げた。
「気を失った二人を別な部屋に運ぶからさあ、先生、手伝ってよ」

 私は、巡査の両足を脇に抱えて引きずった。
 廊下に散乱したゴミ屑に当たって、巡査の頭ががたがたと音を立てて跳ねる。いつ目が開くかしれない。冷や汗をかきながらの移動である。
 さすがに、重い方の巡査を彼女に運ばす訳にはいかなかった。何人かで運べばよさそうなものなのだが、スミレが、
「ねえ、二人だけで行きましょう」
 と、艶のある声でそう言ったのに、不思議と誰も反論しなかった。
 私が巡査を、スミレが秋山のからだを運んだ。
 スミレによると、巡査がモデルガンで誰かを傷つけるのは初めてではないそうで、秋山の傷なら大したことはないとのことだった。
 瞬きひとつしなくなった秋山の顔はとてもそんなふうには見えなかったが、結局私もなにも言えなかった。
 この病棟にボスがいるとするのなら、おそらくそれは彼女なのだ。戸川スミレこそが、その美しい容貌と淫靡な性格によって、この病棟の男たちを牛耳っているのは間違いない。彼女はあたかも、妖鳥セイレーンか森の魔女ドライアドであるかのように、男を虜にする術を身につけているのだ。
 それに巡査を一撃でのした蹴りをみれば、なにか武道の心得もあるようである。スミレから誘惑することはあっても、決して彼女が強引に犯されるということもないのだろう。
 スミレは品定めするようにもう一度私の顔をよく眺めてから、ついてらっしゃいと、長い黒髪を揺らして、背を向けた。
 彼女は目を開いたままの秋山の頭を、さほど重そうにもせずに引っ張っていく。
 私もこの戸川スミレの魔力に、無意識のうちに魅かれていたのだと思う。
 肉付きのよい、それでも無駄なところなどひとつもない腰つきに目の奪われて、何度となく足もとを見失い、転びそうになった。
 そしてそんな私に軽く一瞥をくれては、彼女はさらに刺激的に下半身を揺らし、歩を進めていく。
 奇妙なことに、廊下ではだれ一人ともすれ違わなかった。医師や警備員はもちろん、他の患者も廊下を歩いていない。それこそ幽霊屋敷でもあるかのように静まり返っている。
 二つ隣の部屋の扉を、彼女は蹴り開けた。
 スミレが秋山を投げ入れ、、私が巡査を転がし入れる。
 狭い部屋だった。六畳ぐらいか。コンクリートの壁にタイルの床。小さな小窓があるが数本の格子で塞がれている。ほとんど光は漏れてこない。病室というよりは、牢獄といった方がいいかもしれなかった。
 長い間放置されていたのだろう。申し訳なさそうにおかれてある机とベッドは、やけに埃っぽく、空気も黴臭さと生温い室温によって濁っているように感じられる。
 その天井から、一本のロープがつり下げられているのが、私の目に止まった。
 ロープの先端は環状に結わえられている。私がベッドの上に立ったならば、その弛んだ輪っかは、ちょうど頭の位置に来そうだ。
「ああ。それ、いいわね」
 スミレが背伸びをして、ロープを引き千切る。それで巡査の腕と足をきつく縛り始める。
「……それは?」
「見ての通りただのロープよ。巡査が目覚めたとき動けないようにしておくの。こうしておけばもう練習の邪魔にはこれないでしょ?」
「いや、それはわかるんだが、その、誰かがまさかここで……自殺を?」
「……ええ、そうよ。たしか一か月ほど前だったかしら、元床屋だった男がこの部屋で首をつったわ。それ以来この部屋はずっとそのまま放置されているの。大槻たち職員の怠慢ね。なんでもその男はね、ハサミを持つと客の顔を切り刻みたい衝動に駆られて仕方なかったんですって。なんとか我慢していたんだけど、ある日とうとうこらえきれなって、カット中の女性の顔を目茶苦茶にしてしまったの。その被害にあった女性っていうのがね、実は成人式を迎えたばかりの男の娘さんだったらしくて、だいぶここに来てからも思い悩んでいたようよ」
 私は声もなく、ただロープのつられていた天井を見上げる。
 さきほどの秋山の脚本、市川巡査の暴力、その前の鴻池の脚本のことが思い浮かんだ。そして大槻が話していた、戸川スミレの噂も思い出した。
 ここに入院している患者は、そういう血生臭い輩ばかりなのだろうか。
「先生は」
 スミレは、巡査を後ろ手にして結んだロープがほどけないか確認してから、私に目を移す。
「奥さんの顔を目茶苦茶にしたいと思ったこと、ある?」
 言いながら、彼女は立ち上がり、艶のある視線を流してくる。
「いや、そんなことは、ないさ」
 彼女の肉体から発する体臭か、それとも何らかの香水なのか、体の力を吸い取りそうな甘い香りが、部屋の黴臭さもかき消し、私の鼻孔に漂ってくる。
 さきほどの部屋でもだいぶ近くに座っていたが、こんな匂いは感じていなかった。
「そう。じゃあ、先生は奥さんのことを愛しているんだ」
 白い、人形のような顔が、私の目の前に接近してくる。
「もちろんだ」
「じゃあ、奥さんは先生のことを愛しているの?」
 スミレの胸が私に触れ、その柔らかな感触が、服の上からのしかかる。
「と……」
 私は後退り、ベッドの縁に膝の裏を引っ掛けて、ぺたんとシーツの上に座り込む。
「当然だ。詩織は、妻は私のことを愛している。彼女は従順な良き妻なんだ」
「私もさあ」
 スミレは口をすぼめて、吐息を吹き付ける。
「先生みたいな人、タイプなのよねえ」
 そう言って、さらに体重をかけて、私の上に覆いかぶさった。
 彼女の重みに耐えきれず、私は背中から汚れたシーツの上に倒れ込む。
 ぎしぎしと、古いスプリングが軋んだ。
 さらに強くなった彼女の香りが、私の理性を柔らかく、溶かす。
「先生さあ、秋山さんの脚本読んで変な顔してたわよう。どうして?」
 上になったスミレの舌が、私の首をちろちろとうごめき始める。最初冷たく、そのあとじわじわと温かくなってくる、胸元への心地好いキスー―。
「……どうしてって……そうだな……ただ嫌悪感を感じたんだ……あまりああいう内容は好みではないし、それに……」
 言葉が出なかった。スミレはスカートの上から、両脚のあいだを、ゆっくりとじらすように私の左膝の上に擦り付けている。
 この緩慢な波の繰り返しの前に、私は抵抗することができなかった。
「それに?」
 スミレは上目遣いで、私の表情を楽しそうに眺めている。
 私はすでに、膨張していた。
 彼女の指がシャツの間から滑り込んで、私の肌を生き物のように徘徊していく。
 頭ではわかっている。この状況はいけない。もうすぐ妻が来るというのだ。別な女性と悦楽に浸っているなど、とんでもない。
 私は、自分も戸川スミレの白い肌を貪りたい衝動に駆られていたが、必死にそれをこらえていた。しかしその代わり、私の体は彼女の静かで柔らかな攻撃にも逆らうことはできなかった。この状況から逃れようとは、動けないでいる。
 女の魔力か、男の理性のはかなさかー―。
「……そ、それに、まるで自分のことのように思えたんだ」
 呻きそうになるのを必死にこらえ、なんとか声を絞りだす。
「やっぱりね」
「……な、なにが?」
「先生。先生はやっぱり、私の感じた通りの、いい体をしてるよ。私はねえ、服の上からでも、その人の皮膚の質感や、肌の色艶やなんかがわかるの。最初見たときから感じていたのよ、先生の体は……とてもおいしそうな、私好みの体だってさあ」
 スミレはそう囁きながら、指と舌で、私の肉体を味わっていく。
 おそらくそのときドアを叩く音がしなかったら、私はスミレの誘惑に負け、最後の一線を越えていたかもしれない。
 彼女の唇は、私の首から胸を湿らし、そろそろ下腹部へ忍び込もうとしていた。
「スミレちゃん、先生。遅いんで呼びに来たよ」
 絶妙のタイミングで、吉武がドアを開けた。
 入ってきたままの笑顔を固めて、もじゃもじゃ頭の青年は、ぐるぐる巻きの眼鏡の奥で、私たちのことを凝視する。
「おや? おやおや? 二人でなにしてんのさ。ま、まさか、まさか先生、もしかして、お、お腹ん中に赤ちゃんがいるのかい? それで大きく育てよ、ってスミレちゃんに祈ってもらっているんだね」
 ドアの方を振り向いたスミレの顔が、ちょうど私のお腹の音を聞いていたように見えたらしい。
 復活した私の理性は、比喩的な意味では当たっているとも言える今の状況に苦笑した。
    

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