『なぜ生きる』週刊たろじい通信第13号
はじめに
なぜ生きるのか。これは人生の上でもっともむずかしい質問の一つといってもよいでしょう。
『なぜ生きる』というそのものズバリのタイトルの本があります(高森顕徹監修、明橋大二・伊藤健太郎著)。ある日の午前中、365ページある本を休むことなく一気に読みました。
今週の読書
「なぜ生きる」というテーマを山にたとえるなら、登山道はいろいろなコースがあるでしょう。
この本は、親鸞聖人(浄土真宗)の教えからアプローチしたものです。
Amazonレビューで「わかりませんでした」とか「読む人を選ぶ」とか書いてあります。
わからないのは自分だけではないんだと、ホッとしました。
この本の結論は「あとがき」に載せられています。
もちろん本の中身を一切読まずにあとがきから始めに読んでも、その意味するところはわからないでしょう。
では頭から読んだらわかるのか、と言われると、具体例としてあげられていることはわかるが、肝心の「なぜ生きる」という問いに対しての答は導き出せない、というのが感想です。
ちなみに私は浄土真宗ではありません。
この本で私がもっとも大切だと思ったことは、「因なくして果なし」、すなわち「善因善果」という点です。これは私のモットーのひとつにもなっています。
私が夕食後に皿洗いをすると、妻から「ありがとう」と声をかけてもらえます。
とてもいい気分になります。
次に大切なのが、「世の中、お金だけじゃない」ということです。自分が死ぬときにお金を持っていくわけにはいきません。お金に対する見方が変わりました。
もちろん、生きていくにはお金が必要です。喜劇俳優チャップリンが「人生に必要なのは、勇気と想像力とほんの少しのお金だ」と言っています。
私は精神科に5回入院して、約200万円のお金を使いました。
現在も体調は万全とは言えませんが、入院していたころに比べればはるかによくなっています。
入院時にはスマホ・パソコンは持ち込みできませんでした。
もしあなたが、入院中にスマホでこの記事を読んでいるとしたら、「大丈夫、いつかは時が解決してくれる」と思うようにしてください。
おわりに
「なぜ生きる」というのは永遠のテーマでしょう。
それは一冊の本を読んだからといってわかるものではありません。
日々の生き方の積み重ね、その中に読書も入るのですが、さまざまな体験をしていく中でみずから発見するものなのだと思います。
仏教でいう「利他」の心、どうすれば人の役に立つことができるのかな、と考えながら生きています。それでは合言葉、「ついてる」(斎藤一人)。
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