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サルタンカブース大学への道とその帰り道で新しい仕事を入手した

毎日D/Sビルの自分の机に向かって仕事を通じて知り合った友人達に自分が作ってもらった会社の紹介状を書いていた。合併して5年間勤めていたメーカーで今までやりたくてもさせて貰えなかった仕事が新会社の誕生で今はできるようになった事を綴っていた。これを書いていると心にエネルギーが湧いてくるような気がする。

夜は元同僚や上司と夕食を囲みながら自分たちの夢について語り合った。私たちの気持ちがぶれていない事を何回も確かめあった。ある時オマーン国の新大学向けに案件があって、複合メーカーでしか取り組めない内容の引き合いがあるが、現勢力で取り組むのは難しいと打ち明けられた。是非私に取り組ませて下さいということで、代理店との交渉文面の下書きから初めてシステムの設計を含めて取組みさせて頂く事になった。

とんとん拍子に話は進み、このプロジェクトを実行する事になった。システムの内容は簡単なスタジオと音声室で、大学の芸術学部放送学科用の職業トレーニングシステムで設計から施工まで請け負うものであった。ひとつのメーカーでは賄いきれない内容であったので他メーカーの商品を納入させて頂き、施工は自分が行ってやろうと目論んでいた。

取引承認が得られてなかったので、出資者の会社を通じて5百万円ほどの売り上げを計上できた。これが初めての売り上げになった。元勤務先の会社に積送してもらい商品の到着を待った。8月の盆前に連絡が入り、8月13日の便でオマーンに向かった。この時、出資者の紹介で有償同行頂いた技術者は東京からの出発であった。私は大学生アルバイトのS君と二人で伊丹空港から出発して台北で落ち合った。合計3名の小旅行であった。

オマーン国首都マスカットに到着し、先ずは代理店に挨拶に行った。私にとってマスカットは初めての訪問であった。一緒に仕事をしてくれる若いインド人技術者3名を紹介された。季節柄大変暑い所だ。先ず現場に行ってみようという事で、マスカットから車で約1時間、砂漠の中にある建設中のサルタンカブース大学に到着した。

近くで食事ができるところは印度兼中華料理店が一軒あるだけで毎日同じ昼食を摂る事になる。昼食に行くのに自動車に乗り込む時、余りの暑さに驚愕した。砂漠に長時間駐車してあった車は火傷しそうで車体には触れられないしハンドルも触れないくらい熱い。やっと車内が普通の暑さになるころには目的地のレストランに到着する。勿論窓を開けると熱風が吹き込むので、閉めて走っている。


我々のメインの仕事場であるスタジオとコントロール室は冷房が効いており快適であった。しかし音声室はエアコンが無く、室内に15分も居れば汗が吹き出し仕事にならない。しかしこれで文句を言うと罰が当たると思う事があった。なんとこの砂漠の炎天下で植樹の仕事をしている印度人が10名ほどいるのだ。彼らから聞いた事だが、いつも小さな玉ねぎをポケットに入れていて、意識が薄れるとこれをかじるそうだ。日本では熱中症が云々されているが、彼らは毎日である。よく生きていられるものだと思った。自分たちは恵まれている。

さすがに彼らは昼の休憩は十分にとる。我々がいつものレストランから帰ってくると、建物の日陰で気持ち良さそうに昼寝をしているのをよく見かけた。我々の職場環境に比べ大変な仕事だ。誰かがしなければならない仕事だが、あまり長く生きられないだろうと思った。

長期間のドサ周りが多かったせいか以前から私は旅行中の自炊が好きで、朝食はホテルのものより自分で作ったものを好む。現場の帰りにスーパーマーケットに寄って食材を買い、部屋で作るのだ。ご飯も炊いた。私と技術者は『これは癖になる。』といって毎朝楽しんでいたが、アルバイトのS君はそのうち朝、誘っても来なくなった。

施工はこの環境の中でも約一か月で完了した。施工代金はオマンリアルでしか払えないという事であったのでこれを銀行に持っていってUS$に交換することを依頼した。しかし現物が足りないとの事だったのでトラベラーズチェックを発行してもらった。

同行してくれたエンジニアに100万円を支払った残りを会社の売り上げにした。経費を差し引いても約300万円のお金が作れた。会社ができたとき1000万円あった資本金が出発前の時点で約350万円しか残っていなかったがこれで650万円になった。そう思うと嬉しくなった。

帰国ルートは一人でドバイ・パキスタン・タイ・シンガポール・台湾に寄って以前のように現地の友人達と夢を語りあってきた。考えてみるとこの時の訪問が後の仕事のジャンルを切り開いたみたいだ。その頃、元の職場で定年退職になったエンジニアのTさんに、『一人で大変そうやから無給で手伝おうか?』と言って頂いたので『それでは』ということで、翌日から手伝ってもらっていた。

営業も英語も分からんという事だったので、出張中はとにかく入ってきた交信はそのままFAXでホテルに送って頂き、施工の仕事が終わってからホテルの部屋で返事を書いていた。留守番の人がいるということは大変ありがたい事だ。自分がいなくても電話の受け答えをしてもらえるので、営業のチャンスが格段に増えた。

最後の寄港地台北で代理店を訪問した。ここで雑談中に、市販ビデオのRFコンバーターの周波数を台湾チャンネルに改造できんかという相談を受けた。そうなっていないと輸入許可が正式に取れないので毎回苦労しているとのこと。当時大量生産・大量販売が経営方針であった大メーカーでは企画台数が5000台では取り組む価値は無かった。言い出すことすら恥であった。その改造に必要な水晶発振素子は台北で購入して、当社に送ってくれるとの事であった。とにかく実験してみる事になり5個の部品サンプルを持ち帰った。

帰国後、家庭用ビデオは元職場から購入して、方法を検討した。作業時間は、1台につき初めのうち1時間ほどかかったが、慣れるにつれ約10分でできるようになった。毎月100台の注文が入るようになり。安定した収入源になった。取合えずTさんにはうってつけの仕事であった。この仕事は競争相手がいないので長期間続き、2回のモデルチェンジにも対応した
。この作業用にワンルームマンションをもう一部屋借りた。

この時の旅行で、プロジェクトの設計施工と商品の改造という、この後の仕事の流れの基本を作りえたと感じる。また新しい分野で、改造後の商品を代理店に届けるという通関を含む流通も経験した。こうなってくると経理の仕事も徐々に複雑になり、私が記帳していた経理元帳の内容を確認してくれていた人の作業時間が増えてきた。設立当初、アタッシュケースに銀行通帳と登記簿謄本、実印だけであった簡単な会社が、本当の会社らしくなってきたと感じた。


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