神と悪魔の関係
洋の東西を問わず悪魔は創造主(神)とは反対に人を不幸にする存在として多くの人に認識されています。悪魔祓いを主人公にした映画『コンスタンチン』は強く印象に残っています。
アダムとイブの話
旧約聖書創世記の物語ではエデンの園で蛇はリンゴの実を食べれば『創造主の様になり善悪を知る』と言いました。これは偽りです。実際には食べても善悪を知る智慧は出ません。聖書では偽りやだましは悪魔の主要な武器という事になっています。ところがイブは騙されて食べてしまいます。悪を知らない二人ですからアダムも続きます。
以後二人の内には従来の創造主の位置に自分を置いてイメージするような意識状態が出来上がりました。そして出来もしないのに自己流に善悪判断をするようになりました。これは浅薄な道徳論に解釈されてしまう事があります。
これが原罪つまり人間が初めて犯したオリジナルな罪です。この罪によって二人は楽園から追い出されて苦難に満ちた荒れ野に出ていきます。つまり現世です。これが聖書の創生期に出てくる物語です。
善悪の判断を自分でするようになると日常的に創造主に意識を向け続けるのをやめる事になります。そうするとその人の意識波動は創造主の意識波動に合わなくなります。その結果、創造主から放射されている『生命』というエネルギー波動と彼らの意識波動は共鳴しなくなり、吸収されなくなります。
人の霊は波動の充電式電池のようなものですから、エネルギーが充電できなくなれば充電不全の部分、すなわち罪の部分が出来上がるわけです。これが悪魔の企みです。
悪魔の棲む処は心
仏教で教えられている事は悪魔や鬼は本当に存在しており、その住処は心の中という事です。怒り、貪り、妬み、恨み、疑いと言った黒い雲になってあらゆる角度から私達の心に揺さぶりをかけてきます。
仏典の中にもその事が何度も登場します。つまり悪魔や悪しき者たちが気付かれないように釈尊や修行者に近づき、耳元でささやくパターンがそれです。そしてその存在を気付かれた時に『知っていたのか』と舌打って消えていきます。これはいくつかの原始仏典に書かれています。
私はこの事を知ってからネガティブな思いが心に生じている事に気が付いた時には『私は汝を見ている、お前は知られている』とやると、本当に不思議とそうした想念が消えて悪魔や鬼は本当に心の中に住んでいる事が腑に落ちました。この事で勉強の速度が進みました。
因果応報、金銭や財だけでなく、その人の生前の行いだけが死んだ後もその人に従うのであり、また縁の深い人に影響を及ぼしていきます。遺言は人生最後の行為(業)ですから、書く場合には財産の分与方法しか書けないようなつまらない生き方はしたくないものです。
悪魔の心配事
米国の成功哲学者ナポレオン・ヒル博士の著書『悪魔をだしぬけ』から引用します。創造主は人間を永久消滅から救う事に全面的に関与しています。だからこそ人間に自分の頭で考えるという特権を与えました。自分の意識をきちんとコントロールする事で思考の力を使い続ける人間は肉体が死んだ後は神の一部になります。
思考しない人間は宗教指導者、学校の先生、親の教育によって植え付けられた恐怖心と繰り返しの習慣つまり習慣のリズムの法則により悪魔に操られる事になります。その人間が自分の意識を支配し、自分の頭で考える事をやめて流される人間になった時点で残っているもの全てを絡め取られて操られます。
悪魔によって支配されるようになった時点でまだ残っている人格を宣伝の協力者として利用して次の『流される』人間を造るのに使われます。悪魔の一番お気に入りの方法は人間の意識を恐怖で満たす事です。人間の意識を恐怖で満たす事ができれば、その人間を『流される』ように仕向ける事ができます。そして最後は習慣のリズムによって蜘蛛の巣のようにからめ取られます。
人間は死んだらどうなるのか分かりません。しかも大自然の法則からして、はっきりこうだと証明する事は誰にもできません。この不安が人間を狂わんばかりの恐怖におとしいれます。恐怖に意識を奪われた人間はそれがどんな恐怖であっても自分の頭で考える事をやめてしまい、徐々に流されていくようになります。
悪魔の一番の心配は本物の『考える人』がいつかこの地上に現れるではないかという事です。それは人間が真実を学ぶようになる事です。その真実とは自分の持っている恐怖に怯えて過ごすのではなく、もっと別の事に用いれば、物質世界で望むものは全て手に入るし、死後の世界でも悪魔から逃れる事ができるという事です。ちなみに実際にはこの地上で悪魔に支配されていない人はただの2%だそうです。
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