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歌は人間の泣き声である

歌を歌っていると、思いがけず感情を掘り起こしてしまうことがある

3年前、突然「シンガーソングライターになる!」と言い出して、歌を歌い始めたのだが、何をどうやっていいか、全然わかってなかったので、レッスンを受け始めた。
師匠は、今も、ずっとお世話になっている、シンガーソングライターでボイストレーナー、作曲家の尾飛良幸さんだ。
月に1度のレッスンでは、歌の技術的なことはもちろん、作編曲のアドバイスや、音源制作の細かいノウハウまで、あらゆることを教えていただいている。

レッスンを受けていると、ときどき、自分の心の奥にある「何か」を発見して、心が揺さぶられるようなことが起きる。
その「何か」は、嬉しい、楽しいもののこともあるし、見たくなかった、見ないフリをしていたもののこともあるし、本当にいろいろだ。

歌のレッスンでなんで泣くんだろう〜?と、泣いている自分に動揺しながら、号泣してたこともあったし、笑いすぎて涙が出ることもある。
そのたびに、まるで「ジョハリの窓」のように、自分の知らない自分に出会うようで、不思議な気分になる。

認めたくなかった「歌うことの意味」

今日のレッスンで、私は自分の「本当の思い」を知ってしまい、久しぶりに泣いてしまった。
それが、タイトルの言葉を教えてもらったところからだった。
これは、ブッダの言葉なのだそうで、詳しいことはここに書いてある。

私は、音楽が人の心を癒す、ということは、全くその通りだと思うし、その効果を信じてもいる。
だけど、私は、人の心の痛みや哀しみを癒そうと思って歌っているわけじゃない、ということも固く信じて疑っていなかった。
そもそも「私の歌であなたの哀しみを癒してくださいね」みたいなテイストで歌われた日には、もう聴く気が失せるというか、嫌悪感しか感じないのだ(性格悪くてごめんよ)。

私にとって歌うことは「自己表現」であり、エネルギーを生み出す活動、というふうに思っていた。
でも、それは「顕在意識」というか「思考レベル」でそう思っているだけで、どうやら本当はそうではなかったようだ、ということを今日掘り起こしてしまったのだ。

私が歌を歌い始めた経緯については、このブログに書いたのだけれど、ある日突然「私は歌手になりたかった、歌を歌いかったんだ!」という気持ちが沸き起こってきて、涙が止まらなくなった。

そのことは師匠の尾飛さんも知っているので「歌いたい、と思った時、涙が止まらなくなった、って言ってたでしょ?それは、ひろえっちの怒りや悲しみの感情だよね?歌手になりたかったことを思い出した喜びの涙とかじゃないでしょ?」と指摘されて、めちゃくちゃ動揺した。

なんてこった。
そうか、私は自分の心の中に存在する哀しみや苦しみをいつの間にか「なかったこと」にしようとしていたのかもしれないな。
明るく元気で前向きに!という生き方が最高で、昔のように哀しみに浸って布団をかぶって、涙を誘うような音楽をかけてさめざめと泣くようなことはやってはいけない、と思っていたのだ。
いや、というより、哀しみを感じることは、本当はそんなふうに、自分を自分でいじめるようなことではそもそもなかったはずだ。
「哀しみの感情を感じること」と「哀しむ」ことは違うのだ。

もちろん、どんな時も前向きに考える、というスタンスは必要だし、変えるつもりもない。
でも、ブッダの「歌は人間の泣き声である」の後に書いてあった、人の心というのは「割れもの」のようなもので、私たちはそれを常に修復しながら生きているのだ、ということを読んだ時、前向きさと哀しみは、どちらかがどちらかを抑え込んだり消し去ったりするようなものではなく、いつも、一人の人間の中に共存しているものなのだ、ということが本当に腑に落ちたのだ。

私が歌を歌いたいという思いに自分で気づいた本当の理由は、自分の中にある人生の哀しみをアウトプットすることで、生き方のバランスを取ろうとする潜在意識の働きだったのかもしれない、と考えると、いろんなことがとてもスッキリしてきた。

ポジティブ=善、ネガティブ=悪、ではない

いつも、このことはクライアントにも講座の受講生にも話しているけど、私自身がどうかといえば、やっぱり、前向きで元気であることが価値だと思っているところがあるんだろうな、と思う。
今日のレッスンの中で、哀しみの感情について話している時、この図が頭に浮かんでいた。

よく知られている「陰陽図」。
陰と陽が合わさって、一つの円になっていて、どちらかが欠けても完全な状態にはならない。

人間が自分の命をまっとうする生き方になるためには、陰の部分を切り落として捨て去ったり、なかったことにしてしまってはいけないし、そもそもできるものでもない。
自分のエネルギーの半分を捨て去ってしまうのと同じで、アクセルをベタ踏みしてもさっぱりスピードが上がらない車みたいなものだ。

自分の心を修復するように歌っていこう

生きることは辛いことだ、人生は苦行だ・・・
そういう考え方は、やっぱり好きになれないんだけど、でも、そもそも人としてこの世に生まれてきた時点で、仏教的にいうなら「生老病死」はつきもので、それがあるから、喜びも楽しさもある、というのは、ようやく受け入れられるようになった。

生きることが、自分の「割れものの心」を修復しながら進むことなのだとしたら、誰かを癒そうとするのではなく、自分の中にある喜びや哀しみを歌で外に出してあげることで、自分自身が癒されて、心整っていく、というのがいいな、と思う。
同じような思いを持つ人が、聴いてくれて、心が癒やされるのだとしたら、とても嬉しいし、やりがいがあることだけど、それはあくまでも「結果」なのだ。

先週から、YouTubeで「歌ってみた動画」を始めてみた。
やってみたら、と勧められてもなかなか重い腰が上がらなかったのだけれど、なぜか「やってみよう」と思えたのだ。
思いの外、たくさんの方が観てくれていて、本当に嬉しい。
遠くにいる、まだ会ったことがない誰かが、私の感情のアウトプットに共感してくれているのだとしたら、こんなに感動的なことはない、と思うと、続けてみようという意欲もちょっと盛り上がったりしている。

本当に、歌っていうのは良くも悪くもエネルギーが大きいものだとつくづく思った今日であった。

あ、よかったらYouTubeチャンネル登録してね!
と、ありきたりな宣伝で今日はおしまい!!



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