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子育てによろこびを

今年の5月に生まれた女の子のパパをしています。

もうすぐ5ヶ月になるこの子には、お姉ちゃんがいます。
でもお姉ちゃんは、もう空に旅立っています。

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お姉ちゃんが生まれたのは、いまから3年前、2017年の6月。

おなかの中ではとても元気に育っていたお姉ちゃんでしたが、生まれる直前の深夜にまさかの心肺停止。
すぐに緊急帝王切開による出産となりました。
当直の先生や看護師さんたちの懸命の処置により一命は取り留めたものの、重症の新生児仮死状態。
急いで施設のある病院へ搬送されましたが、長時間の無酸素状態による脳へのダメージは大きく、自発呼吸も原始反射も確認できない状態となってしまいました。

それまで、子どもって元気に生まれるのが当たり前だと思っていたんです。
だってまわりをみても、友達の話聞いてても、芸能人の出産報告だって、みんな元気に生まれてるじゃないですか。
まさかそんなことが起こるなんて、全くもって想像していませんでした。

だから、NICUの小さなベッドの上で、2,600gちょっとの小さな体にたくさんの管をつないで、くたっと横たわっているお姉ちゃんの姿を見ても、すぐには状況が飲み込めない。

人工呼吸器から送られる空気で、人工的に上下する胸。
ぴくりともうごかない指。
低体温療法のために付けられたヘッドギアみたいな器具。

主治医の先生は、その時点でわかっている事実をしっかりと説明してくれました。
かなり厳しい状態ではあるものの、新生児は予後が読みづらいので断定的なことも言えず、という難しい状況。
今思えば、過度に不安にさせず、それでいて変な期待を抱かせないような、配慮が感じられる誠実な対応だったことを思い出します。

ただ、そのときは状況を理解するのに精一杯。
受け入れがたい現実を前に、なんか夢みたいなフワフワした心持ちの中で、「これ、まじだから。」ともう一人の冷静な自分が外から指摘してくる感覚。
ほんと夢だったらいいのにと、その後何度思ったことか。

初めてお姉ちゃんの顔を見たときのことは、いまでも覚えています。

ずっと妻のおなかに話しかけながらどんな顔か想像していた子に、やっと会えた嬉しさ。
初めて会うはずなのに、なぜか懐かしさにも似た感覚。
大変な状況のはずなのに、なぜか湧いてくる安堵感。

泣き声も聞けないし、目も開いてないけど、生きていることに、とてもとても感謝しました。

それでも、一通りの手続きを終えて、赤ちゃんの状況を伝えるために妻のいる病院まで戻る車の中では、運転しながらひとりでボロ泣き。

こんなはずじゃなかったんだけどなあ。
なんでだろう。なにがいけなかったんだろう。
昔の自分の行いが、なにか悪かったのか。
だとしたらその罰を受けるのは、なんで自分じゃなくてこの子なのか。
誰のせいなのか。どうすればいいのか。

子どもって、未来だなって思うんです。
生まれる前には、子どもがどんな感じに育っていくかとか、こんなことしてあげようとか、ワクワクしながら将来のことを、たくさんたくさん想像していたんです。

それがぜーんぶ、どこかへ行ってしまったような寂しさ。
まわりからおめでとうと言ってもらっても、素直にありがとうと返せない悔しさ。

いろんなものが混じった、複雑な感情だったことを思い出します。

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いま、元気に生まれた次女の子育てに取り組めていることは、とても幸せなことです。
でもこの幸せは、当たり前のことだとは思えません。
とてもとても貴重なことです。

いわゆる「普通の」子育てができること自体に、日々感謝しながら、楽しくやっていきたいと思っています。

これからもその様子をnoteに書いていくつもりなのですが、先に長女のことを書いておかないと自分の中で整理がつかないので、今回の記事を書きました。

長女と過ごした1年3ヶ月の間にも、たくさんの幸せな思い出があります。
それもまた別の機会に、ちょこちょこと記事にするかもしれません。

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