『死後の異世界』で生きる
子どもを亡くして、私も死んだ #その一歩踏みだした先に見えたもの
私は半年前、18歳の長男を亡くした。
私の家族は、4人家族。
18歳と15歳になる息子ふたりと、夫と、私。
4月から長男は大学へ、次男は高校へ進学し、夫は人生最後の転職をするはずだった。
4人家族のうち、3人の人生が、同時に大きく変わる瞬間が来るなんてそう滅多にない。
私は、そんな家族のなか、ちょっと誇らしく、ひとり応援者でいるはずだった。
皆が新しい「一歩踏みだした先」に、何を見つけるか。
それぞれの人生の門出に、母として妻として、私がしてあげられることは、それぞれの背中を力いっぱい押してあげることだった。
でも、うちの家族には、みんな揃って祝う春は訪れなかった。
長男は、2月に突然脳死になり、一か月後死んだ。
*
子どもの死とは、この世の果てともいわれる深い悲しみの世界へ引きずり込まれる。
善光寺の暗闇を歩くような、光のない世界。
深海魚の住む海底のような、音のない世界。
ビックバンが起こる宇宙のような、刻のない世界。
特に刻は残酷だ。
心が悲鳴を上げて立ち止まってほしくても、刻一刻と進んでいく。
私だけが、周りからひとり取り残されていく。
子どもを亡くした現実と、つい数日まで一緒に笑っていた過去と、確実に来るであろう未来が頭の中をぐるぐると走り回り、心をかき乱して、何もできない一日が、毎日毎日過ぎていくのだ。
子どもを亡くした世界は、私にとってまさに『死後の異世界』だった。
私は、子どもを亡くして、私も死んだ。
*
『死後の異世界』は「現実の世界」とそっくりだ。
「現実」が映る「鏡の中の世界」。
目に映る景色、聞こえてくる生活音、安らぐ香りに、温かい感触や、笑いや怒りの感情、時間の流れるスピードさえもすべて同じ。
ただ、一つだけ違うのは、死者も生ることだ。
ここは、誰もが入れる世界ではない。
大切な誰かを喪失し、潰されそうな後悔の波と、罪悪感と、悲しみと、敗北感が脳内に押し寄せる。毎日毎日、あの人のことが忘れられず、あの日に戻れたら…と常に過去を振り返る。朝起きて、眠りにつくまで、どこにいても、何をしていても、何度ども何度でも、呪われた悪夢ような現実を生きることになる。
そんな、頭から離れられないほどの大事な人を喪った者だけが、この世界に入れるのだ。
そして、そこは入ったら死ぬまで出られない、「現実の世界」では二度と生きることができない、そんなところが『死後の異世界』だ。
*
『死後の異世界』は、「現実の世界」とそっくりな筈なのに、人によって様子が異なる。
景色も、時間の流れ方も、死者の在り方も。
でも、始まりはほとんど一緒。
その日は突然やってきて、覚悟もないまま暴力的に突き落とされる。
そのせいで色彩が無くなり、鮮やかな景色は、モノクロに変わり、はっきり聞こえなくなり、音の届かない海底まで引きずり込まれる。
時間の感覚がなくなり、起きてるのか、生きてるのかさえ定かでなくなる。
意識は遠のき、他者との距離を感じる。
生きてる人が怖いのだ。
私は、死んだ子どもと一緒に死んだはずなのに、私が生きてるかのように話しかけてくるのだから。
「ねえ、辛いときは泣いていいんだよ」
「あなたは、そのままのあなたでいいんだよ」
「いつものように笑ったっていいんだよ」
そうやって、「現実の世界」の鏡の奥から手を伸ばし、引き寄せられるとき、息をしていなかったことに気付く。
― あなたは生きてるの
― 死んでなんかない
死んだ子どもに背を向けて「現実の世界」に目をやると、今度はすべての感情が猛烈な痛みを伴って表に出てくる。
悲しみだけでなく、怒りや妬み、激しい闘争心、そしてどん底まで落ちる懺悔。
最後に、必ず沸き起こる問い。
「なぜ、私の子どもが死ななければならないのか」
この問いは、絶対に幸せな結末を迎えない。
そこには必ず他者がつき纏うからだ。
なぜうちの子だけが、なぜ私達家族だけがこんな目に、と。
他者を引き合いに嫉妬し、妬み、恨む。
この世の一番の不幸は、この絡み取れないくらい執着した嫉妬心だった。
*
私は、今まで「死」とは「無」になることだと思っていた。
死んでしまったら、何もかも終わり。
今までの努力も水の泡。
だから、子どもの死は敗北感しかなかった。
子どもと共に歩んだ18年という子育ての時間もすべてリセットされたのだ、と。
読み聞かせで来る日も来る日も本の世界を共有した時間も、体当たりで本気でぶつかり合った反抗期の時間も、これからの将来を一緒になって夢見た時間も…
全部死んだら砕け散って塵になったのだと思っていた。
でも、私の踏み入れた『死後の異世界』は違っていた。
脳死状態になった息子から、メッセージが届いたのだ。
あの日の私の判断が間違っていたから、遅かったから、子どもを死に追いやったんだ、私が子どもを殺したんだ、という自責の念に駆られ、死ぬまで一生この罪を背負って、死んだように生きる覚悟を決めた頃だった。
その後、灰になった息子は、諦めかける私に何度も何度もメッセージを送り続けた。
自分の生きる意味をずっと探していたのだ。
悲しんでる暇はない。
さあ、どうする?
どう考える?
どう生きる?
考えろ!最適解。
私の死を無駄にするな!
息子は、母親の私に、これからの人生で悲しむ時間などないくらい、答えの出ない難題を突き付けてきた。
死んだ息子が、すぐ横で話しかけてきて、
これ、あなたはどう考える? と問いかける。
そもそもさ、僕が言ってること分かる??
なんて、皮肉めいた声にならない笑いまで聞こえてくる。
そう、私が『死後の異世界』で一歩踏みだした先には、
死者が語りかける『世界』が広がっていた。
*
息子が最後まで書き続け、追い続けた、自身の「レーゾンデートルー存在理由ー」は、本当に身体が無くなったら無になってしまうものなのか。
私はなぜ、これほどまでに息子を追い続けるのか。
息子のレーゾンデートルとは。
私のレーゾンデートルとは。
*
私は、今、『死後の異世界』で生きている。
「現実」が映る「鏡の中の世界」。
目に映る景色、聞こえてくる生活音、安らぐ香りに、温かい感触や、笑いや怒りの感情、時間の流れるスピードさえもすべて同じ。
ただ、一つだけ違うのは、死んだ息子も生ることだ。
この世界は、なにかとやる事があって忙しい。
「生きて」いる家族のために、ご飯を作り、
死んだ息子と一緒に、「生きる」ことを考え、
「生きて」いく未来のために、社会に出て働く。
こんな異世界の暮らしもまんざら悪くないな、と感じた時、
私の心にぽっかりと空いた穴は、いつの間にか何かで埋まっていた。
あとがき
母親というのは、子どもをお腹に宿したその時から、大きな責任を背負います。なにしろ、自分の行いひとつで、小さな命を潰してしまうかもしれないという危機感を抱いて過ごすからです。
だから、子どもを亡くすことは、どんな理由であれ、重たい罪となってのしかかる。
やっと人並みに大きくなって、ひとりの人間として、どこに出しても恥ずかしくない人柄へと成長した子どもが、自分の目の前で死んでいく様を目の当たりにして、気が狂わない親はいません。
けれど…
子どもを亡くして、私は何を失ったのか。
そう深く考えた時、私は何も失くしてはいませんでした。
だって、母親はいつでも子どもの幸せを考えて生きる、変な生き物なのですから。
私は、今でも、「死んだ息子」と「生きた息子」の幸せを願っています。
子どもが幸せになることこそ、私の幸せなのだから…
人生のどん底にいた私に、この企画を通じて「一歩踏みだした先」を考える機会を与えていただいたこと、深く感謝いたします。
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