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瞑想するということ

時折瞑想をする。それはマインドフルネスなのかもしれないし、禅なのかもしれないし、ただなにも考えてないだけなのかもしれない。

目を閉じたあとと開けた後で見た目に何か変化があるわけではない。これと言った目印はなにもない。

しかし、やるのだ。答えのない海に飛び込みあがいてみることが心地よい。

マインドフルネス的な瞑想であれば、
・不必要な思考活動をやめ、深い呼吸により酸素を巡らせる
・副交感神経を優位にさせ、緊張状態から解放する
・記憶力、集中力など脳機能の改善があるとの報告

であり、禅的な瞑想であれば、
・無心になることで知識や理性を捨て本来の目で世界を見ることができる
・自我の放棄によって神仏と一体化する
・全ては合一という革命的内的転換が起きる

があげられる。

これらの情報を持ってしても、人に瞑想を教えることはできない。なぜなら経験によってしかなし得ない事だからだ。有名な「弓と禅」を書いたオイゲン・ヘリゲルも、禅について生涯をかけて研究したが、いくら文字に起こしても禅を伝えることができないと悟り、原稿を燃やしてしまった。

だからこそ、感覚を記すことに意味があるはずだ。自分自身の感覚について、記す。

瞑想をしていて感じることは、現実との意図的な遮断だ。

生きていると常になんらかの不満や不安がついてくる。しかしそれに実体があるわけではなく、直接的に見たわけでも聞こえたわけではない。網膜に映っただけの映像であり、鼓膜で震えを感じた音波なだけだ。人間は感覚器を通してしか世の中を把握することができないので、物自体とか、五感の及ばないことは知ることができない。

そんなことの繰り返しの世の中では、重要ではないことも重要に感じてしまう。実際重要なことなんてそんなに無い。整形をして、名前を変えてしまえば今起きてることの大抵はどうでもよくなってしまう。重要だと、勘違いしているにすぎない。

その逃避感覚を、意図的に起こすことが瞑想だ。

自分の性格とか、趣向ですら他人とのやり取りのうちに身に付けた記号でしか無い。その何者でも無い自分を見つめている。言語すら持たない。数10分の間、全てを一つにする。雨が降るように、川が流れるように、ただ生まれてきたことを感じる。

そんな事をしていると、やはり現実問題がどうでもよくなってくる。その悩みが、悩みではなく悩まされてるものだったり、単なる習慣であったことに気づく。
人間と苦悩は同一関係なので、日々苦悩を取り除こうと前に進んでいる。それが人間なのであって、それをうまく活用しているのが文化や社会だ。

社会は自分から自由を奪うが、安全を保障してくれる。自由は与えられるものでは無いから、自分自身の内側に探しにいくしか無い。だから、瞑想をする。

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