2024/02/16、『Stop Making Sense』と没入できる場づくりについて
昨晩は指導教官と呑み、そのことは記録しておきたかったのでそこに紙幅を割いたが、15日昼、京都シネマで『Stop Making Sense 4Kレストア』を観てきた。
トーキング・ヘッズの1983年の伝説のライブの映像が映画になったもので、90分弱、ボーカルでギターのデイヴィッド・バーンが登場してから、暗幕が下がるまでがそのまま流れた。そんな映画は初めてだった。
舞台中央のマイクに歩くデイヴィッド・バーンの足元のカットから映画は始まる(下の予告冒頭)が、その白い靴を見た瞬間に「この靴が似合う男になりたい!」と思うほど、顔も知らない彼に(?)惹かれた(この映画、人に薦められてみにいったが、そもそもライブの映画だとも知らなかったし、トーキング・ヘッズのことも、ボーカルのバーンのこともよく知らなかった)。これが一目惚れというやつなのたやつなのだろう。
1曲目は「Psycho Killer」
この曲は、たしか3回生の時に出町座で観た『LETO』でも流れていて、とても印象的なので覚えていた。
『LETO』は、ソ連の反体制ミュージシャンの痴情を描く映画だったので、2曲目「heaven」でティナ・ウェイマス(ベース)が出てきた時点では、「いつ(痴情の)ストーリーが始まるのか」と思ったが、この曲がフルで流れ、3曲目に入った時点で、ああ、このままいくのね、と理解して嬉しくなった。その時の気持ちを表現するのは難しいが、去年のM1の敗者復活でトム・ブラウン布川がもはやツッコミのコメントを残さずに歌を歌い出した時の「このまま行くの!?」の気持ちに似ていたというと分かりやすいかも知れない。
(ここの3分10秒くらいの会場のザワメキ!)
で、ライブはめちゃくちゃよく、どうにかして当時の会場に行きたいと思った。どの曲もダンスも、畳み掛けてくる感じも、圧巻で、ここにいたら皆んなと一緒にイッちゃってるなと本気で思った。
しかし一方で、このライブ映像が映画(映像)であることによって、考えさせられたことがある。それは、端的には、没入の(不)可能性と場づくりの問題だ。自分が昨日いたのがライブ会場ではなく、映画館であったがゆえに生じている勿体無さーーこれは言っても仕方がないがーーをまず感じ、次にその勿体無さを生んでいるもの、あるいは、どうしたら映画でありながらライブに没入していけるのかを考える、そういう89分だった。ぼく自身、トーキングヘッズのカッコ良さにやられながら、一方では没入せずにかなり考えて(make sense)しまったのである。でも、その点で多くの示唆を与える映画だったと思う。
まず、考えたのはカメラワークのことだ。
ヒキ絵が多すぎる。
あの映像を映画としてみるぼくらは、少なくとも最初は当然、映像を客観的な対象物としてみてしまう。つまり、ライブ会場に居れば「場をつくる一員」であるところが、映画館にいるゆえに、ライブを外から俯瞰する目線を必ずや獲得することになり、そしてそれが没入を妨げる訳だけれども、もともと映画であるがゆえにそうであるのにもかかわらず、ライブステージのヒキ絵が多すぎて、そういう冷めた目線を持ちやすくなってしまったように思われた。もちろん、舞台の背景のイラスト、会場全体の照明の感じ、序盤続々と増えてくるメンバーの配置など、弾き絵で全体像を捉えたくなる要素はいっぱいあるけれど、例えばそれはある程度ヨリの動きのあるカメラワークで会場の部分を全部見せたあと、パッとヒキを映すのでもよかったのではないかと思う。
次に、映画館であるがゆえに動けないという問題。私たちはライブだったら、跳んだり跳ねたり踊ったり叫んだりできる。そうした身体の同期に支えられた一体性(観客からすれば没入感)を映画館では期待できない。跳んだり、跳ねたり、踊ったりしたかった。
昨年、寮の談話室で『リリィシュシュのすべて』を流して、全く受けなかったとき、その場が、同じものを一昨年流して「みんなで凄いものを観た」感じがあったときとどう違うのか、結構考えたのだけれど、ひとつはそういう身体の同期性だと思う。あの時は、それぞれがバラバラな感じがあった。
だから最近談話室で映画を流す時は応援上映と銘打ってガヤガヤ見ることにしている。そうするとみんなツッコむべきところでツッコみ、集中して黙ってみるべきところでは黙るのである。ここは黙るところだよね、という感じを共有して、喋ったり喋らなかったりを繰り返すと、会場がひとつになっていく。これはとても心地よいことだ。
だから、今回もそうやって(ライブ会場の人のように)観たかった。
あるいは、これはカメラワークの問題とも重なってくるが、メンバーの全身や2,3人の絡みをヒキで撮るばかりでなく、例えば口のドアップ、足元のドアップをある程度の長さ(15秒とか)撮ってもよかったと思う。というのは、ヒキ絵を観るとその絵は「ああ、踊ってるな」「メンバー同士息が合ってきて盛り上がってるな」と言語情報に勝手に翻訳されてしまいがちだ(しかしそれはライブを見返す人、トーキング・ヘッズのファンからすればとてつもないサービスショットだとは思う)。
が、身体の一部をあえてそこだけ、特に長く切り取ると、そういう言語に翻訳可能な文脈から遊離した肉体の物理的な動きに、おそらくは意識の焦点が移る。そこで、映画館の座席に縛られて動けないなりに、身体の同期ができるかもしれない。ライブのだいぶ最終盤に、バーンの肩上あたりから、その手が下に伸びて足元の機材を触る様子をグーっと追っていくカットが合ったが、ああいう、舐め回すようなカットがもっともっとあって欲しかった。
ぼくはパブリックビューイングとか行ったことないので、そこでどういう没入ギミックが使われているか気になるところだ。
経験のかぎり、没入するにはそれなりの手順が必要だと思うし、この伝説のライブも相当に作り込まれていたように思う。
利尻ではいろいろやりたい。音楽祭、演劇祭。場づくり頑張ろうと思えた映画でした。IMAXとかで観てたら考えなかったかもしれないことだが、とはいえIMAXで観たいな。
最後、盛り上げるところまで盛り上げといて、あとのことはメンバーとクルーと観客に任せて「good night」、ひと足先に舞台を去るバーン、カッコ良すぎる。
よく眠れず、朝から書いた。躁気味ですね。
昨日は京都シネマを出て、一緒に観た後輩とわたつねに行って、ぼくは白子天定食を食べた。
付き合ってくれてありがとう。
16日朝の岡崎公園。
聴き取れないと思ったらフランス語なのね
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