謙遜の仕方を見直す

若者たちと活動していると、多くの刺激を受ける。
2019年がはじまったばかりですが、すでに多くの若者たちとやりとりをする中で、素直にすごいなと思える場面に遭遇している。

こういうときに思い浮かべる若者たちはとても「優秀」な姿を思い浮かべるかもしれません。でもわたしがここでいう若者は、悩んでいる人もいるし、困難に直面している人もいるし、海外からのゲストもいれば、ウイルスパニック最中の人までさまざま。みんなやりとりの中で私にない視点、価値観、アイデアなど私のなかの心や脳を刺激してくれる。

それだけ私という自己にとっては、他者は何かしら影響するものだと思っている。(このあたりのことはまた書きたい。)

それだけ私は刺激を受けてひとり興奮しているのですが、当の若者たちは「私なんて全然(だめ)なんで」と言う。

そんなとき、そんなに謙遜しなくてもと思うわけですが、ふと謙遜という言葉をあらためて考えてみようと。

謙遜は、へりくだり(という言葉もわかりにくいか)、自己を低く評価した視点からの言葉や行為としてあらわれる。という点では、さきほどの「私なんて全然(だめ)なんで」というのはまさにと思う。一方で「謙虚」という言葉もあるなとふと思い至る。

謙虚は謙遜と同じようにへりくだりはするも、相手からの評価や意見などを素直に受け取るという印象でしょうか。謙遜に比べると自己の価値を自身で下げず、自身の行為や表現への他者からの評価素直に受け取る感じです。

イメージだと謙遜はほめられたのに、自分はダメとなり、謙虚だとほめられたら素直に受け取りつつこれからも精進します的ニュアンスになるのかもしれない。

そして他に似たような意味合いの言葉を思い浮かべると、卑下という言葉も。こちらは、自己を低く評価し、さらに自己を卑しめるという意味合いが加わる。

※謙遜、謙虚、卑下の意味については、「コトバンク」という朝日新聞、朝日新聞出版、講談社、小学館などの辞書から、用語を一度に検索できるサービスさんで調べてみました。https://kotobank.jp
※謙遜、謙虚、卑下の意味を参考に、私の見解を書いております。

そんなことを考えると、結構、自分を卑下する若者が多いなと思うのです。自分に自身がない、実際に自分では自分をまだまだと思っているということはあると思います。あくまで自己評価であり現在地(まだまだというなら何かしら目安がある)でしかない。しかし、その現在地が悪いこと、ダメなこととして価値を下げてしまう。テストでいうと100点という数字は変わらないのに、100点すごいねといわれて、「今回のテストがいつもにくらべて簡単だっただけです」「ありがとうございます。もっと難しい問題も解きたいのでがんばります」「今回のテストはだれでも100点とれますし、解答に時間もかかっているし、もうほんまダメなんです」という感じでしょうか。

さてこのテストで褒めた人が100点とれなかったらどんな気分だろうか?

謙遜からはじまっていろいろ書いてみたけど、私自身はほんとに多くの若者から刺激を受けているし、私にできないこと、私が気づけないことをたくさん与えてくれていると思っている。だからこそ、できれば卑下ではなく、過度な謙遜でもなく、謙虚くらいの視点で自身に向けられる言葉や評価と付き合ってみてはどうかと思っている。

そんなこんなでぼちぼちnoteの更新を再開していこうと思っています。

2019年も宜しくお願いいたします。

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