諦めること、手放すこと

ブッダの教えを学んでいると、パラダイム変換を迫られる。

パラダイムっていう言葉の意味を知らずに、今までなんとなく聞いたり読んでいたんだけど、調べてみるとパラダイムというのは「自分が当たり前のこととして疑いもしない考え方」のことだそうで、パラダイム変換というのは、「当たり前だと思っていた考え方がひっくり返ってしまうこと」だそうです。

ブッダのパラダイムと僕が生きる今の世界のパラダイムで大きく違うなと感じることが一つある。夢や希望だ。

僕らの世界では夢や希望は良いもので、生きる上での支えだと考えられている。しかしブッダの考え方では「夢や希望は執着」であって、「苦しみを産む原因になるもの」ということになる。夢や希望がなければ、叶わない苦しみも生まれないし、叶った後に失う苦しみも生まれない。

確かに思い返してみれば、夢を持たなきゃ、大きな目標を持たなきゃ、小さな目標を持たなきゃ、とか思ってたくさんの夢や目標を持って来たけど、それらを追うことには際限がなくて、叶わなくなってきた時にどっと疲れてしまうようなことがある。叶わなくても辛いし、叶っても次はこれを目指そうという感じで、キリがない。

夢や希望や目標が生きる支えだということは、今が満たされていないということになる。確かにそうだ。今足りない思いがあるから夢や希望や目標を持つ。満たされている人には必要のないものだと言われれば確かにそう思う。

つまり今あるもので満たされていれば夢や希望は必要ないのだ。今あるものとは何か?所有しているものは今あるものだけれど、いつかは失うもの。それに執着はしないほうがいい。つまり今あるものとは自分自身、裸の体そのものだということになる気がする。

呼吸している。心臓が動いている。光を感じる。音を感じる。味を感じる。温度を感じる。ものを触ることができる。喋ることができる。歌うことができる。歩くことができる。走ることができる。笑うことができる。

僕らはすでにこれほど多くの財産を持っている。人によっては見えなかったり、歩けなかったり、聞こえなかったりするかもしれないけど、それらを除いたとしても多くの財産を持っている。

今生きているということに十分な喜びや感謝を感じていれば、それ以上はいらないのかもしれない。

そういうことを考えていると、今持っている夢や希望を諦める必要が出てくる。「諦める」という言葉に強い嫌悪感を感じてしまうのは、子供の頃から「諦めることは良くないこと」だと教わり、それを信じて生きて来たからだ。しかし今までの経験上、諦めることで楽になり、少し幸せになったことは多々ある。諦めることは悪いことではないと大人になって薄々感じて来ている。

年を取り、できないことが増え、自分の器量を知ったことで、夢を諦め、地道に生きるうちに満ち足りた人生を歩むようになったという話を聞くことがある。ある意味あれはとても当たり前のことなのかもしれない。自分の器量以上に背伸びするところに苦しみが生まれるのだから。

夢を追っていた頃の人間関係にコンタクトすると、変な負い目を感じて辛いかもしれないけど、そういう人間関係とは別の世界で生きれば、そういう思いをすることなく、幸せに生きられる気がする。

ブッダの教えでは諦めることを「手放す」と表現する。ブッダの呼吸法の教え12項目の最後に「手放すことに意識を集中させながら息を吸おう。手放すことに意識を集中させながら息を吐こう」というものがある。

全ては変わりゆくもので、色あせ、いつかは消滅する。だから執着せずに手放す。そういう考え方だ。

夢も希望も持たずに生きる。ただ今生きていることを感じながら生きる。そしてやってくるもの、目の前で起こることを受け入れながら生きる。確かにとても幸せな生き方だと思える。でも横浜という比較的都会的な場所に暮らしていると、こういう考え方は少々受け入れることに抵抗を感じる。

ブッダの考え方が常識となっている世界では抵抗など何も感じずに受け入れることができるのではないかと思う。一時期、世界で最も幸福度指数の高い国としてブータンがもてはやされたが、ブータンはチベット仏教が浸透した国のようだ。世界最貧国でありながら世界一幸福度指数が高いとはどういう状態なのか、一度この目で見に行きたいと思う。

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