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さびしいものが好き [20240321]

さびしいものが好き

 寒風のなか、ひとり。音も立てずじっとしていれば、自分が無色透明になって、ふだん認識から排外されてしまう、僕の人生の意味をなんら変えることのない生命体たちの営為の輪郭が立ち上がってくる。

 主体の支配権を理性が他者に手放すことによって、他者の主体性が増す。これだけだと微弱なものにも思えるが、この贈与は相対的なものである。向こうが増え、こちらが減るのだから実質の授受の2倍の変化を体感することになる。

 僕は部長をやっていた経験のなかで、代表者がいなくても全く誰も困らない組織というものが理想だと考えるようになった。数少ない人間を除いて、我々の多くは(短期的には可能であっても)長期的にストレスを負うことができない。ストレッサーの代表例は、人に嫌な顔をされることである。代表者の仕事というのは、方向性の異なる構成員の意見を集約し、組織の行動を決定することである。代表者は決定権を持つ人間として、分裂を回避したり組織の安寧を保つために、組織の方針と意見が異なる構成員に対して丁寧に対話をする必要がある。丁寧な対話という表現は少々美化が過ぎるかもしれない。対話を円滑に進めるため、組織を開放的な空気感で運営するが、その結果代表者には理解と尊敬心のないただ傷つけることを目的とした鋭利な言葉が向かってくるのである。専制体制であれば代表者は楽かもしれない。専制体制の構築/維持もそれはそれで難しいと思うが。

 話がズレた。リーダー論については別日に詳しく記述することとして、とにかく僕にとって、自分の存在の不要性を確認することは幸せなのだ。「必要ではないが、あったら嬉しい人間であれ」というのが僕の今生の処世術である。「今生の」と限定した理由は、この人格のまま違う時代に生きたとして上と同じ結論に達していたかといえばそうではないと思うからである。

「各地域/各時代における俺なりの生き方妄想」は面白そうだ。各地域/時代への深い理解が必要とされる点で大変そうだけど、面白い取り組みに思える。

 こんな処世術、寂しい気もする。存在意義というのは自分の存在が必要とされることで初めて実現するから。「存在意義はないけど、存在したら嬉しがられる」的な?言葉を変えてみるとより寂しくなってしまう。しかし少なくとも、必要とされることは僕には重荷であることは事実である。

 僕はこの処世術を共有するすべての人間のかりそめの諦観が好きだ。自分も含めて、この処世術がさみしいと認識している時点で存在意義への根源的欲求を捨てられていない。プラスティック・サージェリーで身体のいくつかを変更したところで、その人間はその人間なのだ。それなのにあたかも劇的な変化、悟りを装う。その滑稽さが好きだ。

 僕は二重でさみしいものが好きだ。第一に、同様の処世術のイズムを感じられるから。あるいは、その処世術の存在を思い出し、自分がこのような境地に辿り着けたことを誇らしく思う契機となるから(まったく僕は虚栄心の塊だ)。第二に、上記の滑稽さを嘲笑する、エンターテイメントとして味わうことができるためである(まったく僕は虚栄心の塊だ)。

まったく僕は虚栄心の塊だ。

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