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やなせたかしの伝記を読んで_人生のピークはいつやってくるか分からない②(2024/5/21 #55)

前回「人生のピークはいつやってくるかわからない」ということを書いたのですが、このテーマにうってつけの著名人がいます。

それは「やなせたかし氏」です。アンパンマンを世に生み出した人物として有名です。2025年のNHK朝のテレビ小説『あんぱん』のモデルとなっている人物でもあります。

TVアニメが始まってから35年ほど経過し、その時代の子ども達の多くがアンパンマングッズを手に取っているのではないでしょうか?(我が家にもありました)

では、アンパンマンのTVアニメが始まった時、やなせ氏が何歳だったかご存知でしょうか?
なんと69歳の時です!

やなせ氏の生涯について知るキッカケとなったのは、録画してあったTV番組『ザ・プロファイラー』(前回の「漁師ピアニスト・徳永さん」も録画番組キッカケ)。

今回はこの番組をキッカケに『アンパンマンの遺書』というやなせ氏自身の伝記も読んでみて感じたことを書いてみます。


はじめに:多くの人にとって69歳は「仕事を退く時期」

アンパンマンのTVアニメが世に出たのは1988年。
労働政策研究・研修機構の浅尾さんの論文によると、当時の定年年齢は60歳とする組織が半分程度、55歳以下・56~59歳としている企業がそれぞれ2割程度と、ほとんどの人が60歳で定年を迎えていた時代です。

日本企業の一律定年制の定年年齢の推移
出典:労働政策研究・研修機構 統括研究員 浅尾裕
『日本における高年齢者雇用及び関連する諸制度の推移と課題』

現在でも働く人の多くは、やなせ氏がアンパンマンのTVアニメを世に送りだした69歳には仕事を退きたいと考えているようです。

以下の調査データを見ると、60歳未満の働く人のうち8割は「働き続けるなら69歳以下まで」と回答しています(若ければ若いほど、早い時期に働くのを終えたいと考えているようです)。

出典:リクルートマネジメントソリューションズ
第2回「一般社員の会社・職場・仕事に関する意識調査」

多くの人が退くタイミングで、大ヒットアニメを世に送り出したやなせ氏。彼はどのような人生を歩んだのでしょうか?

アンパンマンの影も形も見えない前半生

やなせ氏は、実の父を早くに亡くし、母親に預けられた親戚の家で育ちます。出来の良い弟と比較される日々のなか、雑誌に熱中。その雑誌にある挿絵を見て「漫画家か、挿絵画家になりたい。これなら数学がダメでも大丈夫だろう」と思ったそう。

その後「東京工芸学校図案科(今の千葉大学)」にてデザインの勉強をして就職するも、太平洋戦争の際に兵士として中国に出兵。

終戦後は地元高知の新聞社に入社。一度取材に東京に出たことがキッカケで、「東京へ行きたい」という気持ちを強くする。

後の妻となる、同僚であり恋人の暢(のぶ)さんの応援もあり、東京へ出て、三越に入社することに。

三越で手掛けた仕事に「包装紙のロゴ」というものがあります。
宣伝部員として、包装紙のロゴをデザイナーに依頼したものの「MITSUKOSHIという字はそちらで書いてね」と言われ、やなせ氏が書いたのです。

三越の包装紙(筆記体の文字がやなせ氏のデザイン)
出典:https://cp.mistore.jp/mitsukoshi/hanahiraku.html

このほか、「三越劇場」のポスター描きの仕事など、デザインに関する仕事をしつつ、副業的に漫画の投書を色んな媒体あてに行っていたそうです。

セミプロの漫画家として、多少生計の目途が立った頃に三越を退社。
ビール会社の広告漫画などを描きつつ、この頃は「来る仕事は全部引き受けた」そうで、登場したばかりのテレビ関連の仕事にも携わる。

漫画界には手塚治虫を始めとする「トキワ荘」の人たちが台頭しつつあったものの、やなせ氏は漫画家としての知名度は低く、引き続き様々な仕事をこなす日々。

インタビュアーとして映画スターなどを訪ね、記事を書く仕事もしており、その記事を見た永六輔(えいろくすけ)氏が、ある日訪ねてきて「僕のミュージカル(見上げてごらん夜の星を)の舞台装置をお願いしたい」と言ってきたそう。

舞台装置の仕事などやったこと無いと言いつつ、なんとか形にしていきます。
この時42歳。アンパンマンの影も形もまだありませんね。

50歳近くで訪れた3つの転機

その後も『手のひらを太陽に』の作詞をしたり、テレビ映画の脚本の仕事をしたりとマルチな活動を続ける。

転機の1つが「山梨シルクセンター」という会社の辻さんが持ち掛けてきた「詩集を出しましょう」という話。

山梨シルクセンターはのちに「サンリオ」(キティちゃんとかで有名)となる会社ですが、この頃は社員6名の会社だったそう。
そこに「出版部を立ち上げる」ということで、やなせ氏に作品づくりの声がかかったのです。

転機の2つめが、「ラジオドラマの脚本が間に合わないので、穴を埋めてください」と依頼を受けて書いた脚本。これが後の代表作の1つとなる『やさしいライオン』。

『やさしいライオン』

転機の3つ目が、手塚治虫氏から「映画のキャラクターデザインをやってほしい」と依頼され引き受けた仕事。ここで「キャラクターデザインというのは自分に向いているのかも」と思ったそう。

この映画がヒットし、手塚氏からお礼として「アニメーション短編の映画を自由に作ってください」と言われ、初めてアニメ制作を行います(題材は『やさしいライオン』)。
これもヒットし、絵本も売れたためフレーベル館(のちにアンパンマンの絵本を出版する)という出版社と縁が深くなります。
この時50歳。半世紀経過し、ようやくアンパンマンにつながる話題が出てきました。

大人からは不評でも子どもに評価され人気作に!

サンリオがそれなりの規模の会社になった頃、やなせ氏は社長の辻さんに「詩の雑誌をつくらせてほしい」と打診し『誌とメルヘン』という雑誌を発刊します。この時54歳。

「詩の雑誌なんて売れないよな」と、やなせ氏自身も思っていたものの、これが売れ「ライフワークのひとつをこの年に持つことができた」と振り返っています。

同じ年に絵本の『あんぱんまん』(この時は平仮名)を発刊するもこれは出版社から不評。しかしアンパンマンへの愛着が残っていたやなせ氏は『詩とメルヘン』上でアンパンマンを連載します。

しばらくして写真のフィルムを現像しにいったカメラ屋で『あんぱんまん』が子どもに人気であることを知ります。

大人(出版社)には不評だったものが子どもにウケる。「幼児向けに書かれていないあんぱんまんが、何故幼児にウケるのか僕にも分からない」とやなせ氏が振り返っている通り、人生では何が起こるか分かりません。

終わりに:退場さえしなければチャンスは巡ってくる

絵本から人気が出たアンパンマンは後にアニメ化し、その後はみなさんの知るような展開です。

もっと多くのエピソードがあるのですが長くなるのでここでは割愛しまして、最後にやなせ氏の人生に触れて思うことを2つ書いてみます。
1つ目は「どの経験が後々活きてくるかは予測できないな」ということです。

漫画家としてはヒット作に恵まれず、「困った時のやなせさん」として依頼されるがまま、テレビ、舞台、ラジオドラマ、詩の雑誌と様々な仕事をしてきたものの、これらの経験が次の仕事につながり、その経験のひとつひとつがアンパンマンの創作に活きているのです(作詞業が劇中歌の制作につながったり、手塚治虫の手伝い経験が豊富なキャラクターづくりにつながっている)。

2つ目は現役であり続けたからこそ、想像しなかった人生のピークを迎えられたということです。

やなせ氏が出会った、様々な才能の持ち主のほとんどが、やなせ氏よりも若くしてこの世を去っています。
やなせ氏自身も何度も入院しているのですが、それでも寝たきりにならず現役であり続けたからこそ、多くの人が仕事を退くタイミングからピークを迎えていったのです。


私も、生涯通じて何か仕事を持っていることが充実した人生につながると思っています。

noteを書くという行為がこの先何につながってくるのか今は全く分かりませんが、こうしてインプットしたことをアウトプットに変えていくことも、とても楽しい!

今のところは楽しさをモチベーションに続けてみたいと思っています。

さて、2回にわたって書いてみた「人生のピークはいつくるかわからない」ですが、2つの事例はピークを目指すアプローチが異なるなと感じてます。その辺については、また機を改めて書いてみようと思います。

今回は以上です!

※今回参考にした書籍です。やなせたかし氏がネガティブに語っており楽しく読めます。


もしサポートを頂けましたら、インプット(書籍、旅など)の原資として活用させていただきます!