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【エッセイ】警戒すること。警戒されること。

 父がひたすらに犬を飼いたがる。
犬を飼いたいという大きな理由のひとつに私には思い浮かばなかった理由があった。
「ただ運動で散歩しているだけなのに、警戒されるのが辛い。」
まだ我が家に愛犬がいた頃、その愛犬を連れての散歩だと警戒されることはあまり無かったらしい。その理由を聞いた時は、少し父がかわいそうに思えた。

つい最近の出来事だ。平日のもうすぐ日が傾き始めるかなという時間帯。私はその日、早く予定が済んだので、途中の駅で降りて一時間程散歩がてら歩いて帰ろうと思い、割と頻繁に降りて線路沿いを歩いて帰る駅だったので、たまには、といつもとは違う住宅街を通る道を歩くことにした。
初めて通る道。交差点の度に立ち止まり、四方に視線を巡らせては「この道はあの踏切に繋がってるのか。」とか「あれ、同じ塾だった○○ちゃんが通ってた小学校じゃない!?」とか、電車から見えるよく分からない建物の正体に驚いたり、身近な場所での新しい発見は小さな冒険のようでとても楽しかった。
そんな小さな冒険をしばらく続けていると、どこかから視線を感じた。視線を前に戻すと黄色い帽子に赤いランドセルを背負った小学生と目が合った。すぐに小学生は私と同じ進行方向へ向き直り歩きはじめた。
「もしかして楽しい気持ちが顔に出てたかな。恥ずかしいや。」
そう思い、顔の筋肉を引き締めて私も再び歩き出した。
その後も、前を歩く小学生と何度も目が合い、私は確信した。

警戒されている。

正直なところショックだった。私は初めて通る道に胸躍らせて歩いていただけで、勿論その小学生に危害を加えようなんて一切考えていない。さらに言ってしまえば、小学生とおそらく同性である私は、警戒されるなんて考えてもいなかったのである。
しばらくショックを受けながら、どうしたらいいかと考えつつ歩いていると、前を歩く小学生が道の端に立ち止まり私を見つめていた。警戒されていることは感じていたので、そのまま視線を受け止めながら身を縮めて小学生からなるべく距離を取り、抜かした。抜かしてからも視線を感じていたので、振り向かずに自分が曲がる角まで早足で歩いた。曲がる時に横目で見るともう小学生の姿はなく、胸を撫で下ろしつつ帰宅をした。
 帰宅した自分は疲れていた。自分でも思っていた以上にショックだったようだ。できればもうあの視線は受けたくない。まさか、自分が警戒される立場になるとは。
その夜、もう警戒されない為にと小学生の立場になって私を振り返ることにした。パッと浮かぶだけでも、
知らない人。
自分より大きい存在。
立ち止まったり周りを見渡したり落ち着きがない。
そんな存在が自分の近くにいる。

…こわいな。
私も警戒するわ。小学生のあの子、正しいと思う。危険察知能力素晴らしい。
むしろ警戒してくれる子であってくれて良かった。ありがとう、とさえ今では感じている。

どこかで私は人を警戒する側の人間だと思い込んでいた。でも警戒される立場の人間でもあったのだ。そのことに気づくことができた時、不思議とあの小学生に救われた気がした。
人を警戒するというのは、少し罪悪感を伴うと思う。今回の出来事のように、道ですれ違っただけの人のような、何も知らない相手は特に。
何も知らないから警戒するけれど、何も知らないのに警戒して申し訳ない。警戒した結果、何もこわいことは起こらなかった時、良かったけれど、疑ってしまってごめんなさい。
繰り返す度にそういう罪悪感から警戒心を弱めてしまいがちだ。だが、たとえ誰かに自意識過剰だと言われても、何もこわいことが起こらなくても、警戒していいのだと今回の出来事から感じたのだ。だってその時はこわいんだもの。
これからも私は警戒するし、警戒されるだろう。それでいいのだ。

父よ。あなたも、散歩中にあなたを警戒する人にショックを受ける必要はありません。もし、それでも辛いのであればたまには家族を散歩に誘ってみてはどうでしょう。気持ちは分かりますが、犬、犬、と母を困らせないように。

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