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ストーリー理解、ということについて考える

ここ最近の COTEN RADIO のエピソードで、折に触れて出てくるのがストーリー理解。これは確かにその通りだな、と思わされるポイントで、どうしても「なんでこうなってるんだっけ?」を知りたくなってしまう。エピソード内で詳細に語られていることなので、詳細はぜひそちらを聞いてもらいたいのだけど、自分の中でもやっぱり昔から考えていたことは、原因を把握することによって対策が打てるようになるから、だろうか。もしくはそうあってほしいと願うから、かもしれない。

だいたいはなにがしかの失敗した場合のことが多いのだけれど、原因を把握することで対策を打って、同じ失敗を行わないようにするとか。ときどき、ポジティブなことについても同じようにする。自分なりの勝利の方程式。もしくは、他人の勝利の方程式を自分に取り入れたり。でもこれはだいたいうまくいかなかったりすることが多いけど。

背景を知ることで疑問の本質を知った気になりがちで、なんとなく納得してスッキリするんだけど、でもそういうのが当てはまらないことも多い。特に科学的でない分野というか、それこそ人文知の分野、ということになるのだろうか。自分が生まれてきた意味とか。

ただ、こういう原因があって結果がある的なストーリー理解について、昔から強烈に違和感があったことが「犯人の動機」というもの。ニュースで何かしらの事件が起きて、特に凄惨な殺人事件とかで、「犯人の動機の解明が待たれます」というアナウンサーのひと言。これが昔から気持ち悪かった。その行動の動機なんてものが、そんなに単純な言葉で表せられるようなものなのだろうか、とずっと思っていた。

動機を他者が理解できるようなレベルで伝えようとするなら、きっと原稿用紙十枚は下らないんじゃないだろうか。それを、ニュースで「動機は〇〇でした」という薄っぺらい言葉にして流すなんてことは、絶対にできないだとうと思う。のだけれども、人にはきっとストーリーが必要で、「ああ、〇〇という動機があってこの行動が行われたのだな」と納得したいのだろうな、と。そういう動機を封じ込めれば、二度と同じような犯行は起こされないのだろうな、と。そういう納得感を得たいのだと、今回のストーリー理解の話を受けて、妙に納得した。(この時点で自分もストーリー理解に囚われている可能性が微レ存、どころではなく大いに存在しているけれども)

ところで今、本を読んでいて、本を読むということはストーリー理解したい、ということなのかもしれない、と思い至った。

最近は本の要約サービスや、ネット記事で紹介されている内容で、その本の本質的な部分とか結論の部分とかは公開されてしまっていることも多い。特に有名なノウハウ本とかハウツー本とか、何かしらの研究に関する情報のまとめ本とか、そういうものであればまとめ情報がけっこう見つけられるし、そうでなくても本の目次や概要、あるいは結論部分だけで事足りてしまうことも多い。

でも、本の中にはそこに至る道筋みたいなものが書かれていたりして、一冊のあのボリュームになっているわけだけれども、本当にその部分は読む必要があるのか、という話も出てくる。速読法なんかはそういうところをすべてスキップしていく読み方なのかな、と考えてる。

自分はどちらかというとそういうのが苦手で、折角なので最初から全部読みたくなる派なのだけれど、やっぱりストーリー理解したいからなのかもしれない。前後関係とかそういうのが理解できてきて初めて自分の中に身についていくような感覚がある。きっとそれは、そのストーリーの中に矛盾が無いかとか、あるいは既存の他の情報との矛盾が無いかとか、そういう検証を行っている部分も含まれているのかもしれない。要は情報を鵜呑みにしないように気をつけている、ということなのかもしれないけれども、その本の情報が正しいと思い始めた後は、きっとその結論に賛成するための自分なりの補強を頭の中で行っているのかも。

ファクト認識が苦手な自分、ストーリーで安心したい自分が見え隠れしているのかもしれないな、なんてことを考えていた。

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