脚色と脚本、原作は原案であり、脚色で変わって当たり前、批判は的はずれなだけ。

脚色と脚本、原作は原案であり、脚色で変わって当たり前、批判は的はずれなだけ。

最近、原作至上原理主義な皆さんが、脚色や演出に対して不当な批判をネットで出していて、炎上することが多くなっている気がする。これは、クリエイターのクリエイティブな活動を阻害するだけにしかならない愚行だなっと感じて哀れに思う。
原作は、原案でしかなく、元ネタの骨格でしかないのが、脚色作品なのだから、同じになるわけはない。表現も変われば展開も変わるのは、当然なのが前提であり、変わらない方が本来から言えば例外だろう。
原作者は、原作を原案として提供する際に、改変される前提であることを理解しておくべきだと言える。改変のレベルや条件などは、原作から創作される作品の表現上の制約などで無理なものは除き、指定して確認して、契約上明記しておくことが、ビジネスとしては当然すべきことであるわけなのだから。条件が合わないなら、許可しなければ良いだけのこと、原作者には拒否する権利があるのだから、許可した以上は、原作者は認めているというのが事実であり真実となる。その結果を否定することはリスペクトしていないヘイトだとも言えるかもしれないない。
事実として、本当に自身の著作物が脚色されるのが嫌な人は、許可を出していないか、自分で脚色を行うことを条件にしている。
個人的には、改変という言葉に違和感しかない、脚色というべきだと思っている。優れた脚色は、ときに原作を超えた魅力を持った作品となる事がある。
そもそも、原作と脚色作品は、全く別の作品として、観賞すべきものだと思っている。それが、クリエイターへの礼儀だと思うし、クリエイターをリスペクトする事だと思うからである。
原作原理主義の皆さんは、脚色作品は見なければ良いのだ。別の作品だと思えない時点で、正しく評価など出来るはずがないのだから。
オリジナル脚本を創作することと、原作・原案を脚色作品に創作することは、異なる創作作業であるし、異なる才能が求められるものでもあると言えるだろう。
ハリウッドのアカデミー賞が、脚本賞と脚色賞を別に表彰している事には意味も価値もある。日本アカデミー賞が、別にしていない事は残念でしかない。見直して欲しいものである。

日本のテレビ番組では、ライブアクション・ドラマ作品では、脚本作品が多く、脚色作品は2割未満のレベルになっているが、アニメ作品では、その逆に脚色作品が多く、脚本作品は1割もないレベルとなっている。これは、テレビ番組の歴史やテレビ局の意向が大きく関わった結果でもあるのだが、視聴者には関係ない話しでもあったりする。本来、視聴者は、原作の有無など知る必要もなく、観賞して楽しめば良いだけである。原作を知らないと楽しめない様では脚色の駄作と言われても仕方ないと言えるだろう。
優れた脚色作品は、原作の情報を観賞者に求めないものだと言える。

ちなみに、脚色作品を製作するにあたり、原作者から著作物利用の許諾を受けていないなどは、論外な違法行為でしかないし、許諾契約の内容(許諾条件)に従わないのも論外な契約違反行為でしかない。その様な事実は批判されて当然の事である。ただし、違法行為でもなく、違反行為もない、脚色作品を、原作と異なると批判するのは、単なるヘイトでしかないとも言える。それこそ、マナー違反だし、クリエイターへのリスペクトもない戯言であり愚行だと認識すべきだろう。
もちろん、原作を知っている場合は、先入観無く脚色作品を観賞するのが難しいのは当然の事であり、脚色作品への評価に影響するのも仕方ないとは言える。だが、作品への正当な評価としては、原作との違いを評価対象から除外して脚色作品そのものを評価すべきだとも言える。まあ、そのあたりは、出来ない人もいるし、個人的な感想には必要ない事ではある。

ちなみに、原作原理主義な的はずれな批判は、無視するのが1番良いだろう。脚色作品の魅力を充分に楽しんで観賞するのが、素敵な事だと思う。

私は、原作は、原作として、楽しんで、脚色作品は、脚色作品として楽しんで観る様にしている。
アニメ作品も、人気作品を多く出しているジブリ、京都アニメ、ufotableなど、有名なスタジオほど、優れた脚色作品が多いし、その脚色の魅力は観賞していて気持ち良いものである。

これからも、多くの優れた脚色作品が出て来て楽しませて欲しいと願ってやまない。製作サイドもネットなどのヘイトや批判など気にすること無く、クリエイターの制作環境を守って、クリエイターがそれぞれに最高な創作活動が出来る様にして、魅力ある作品を送り出して欲しい。

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