暴力ではなくユーモアを—森氏問題発言

 東京オリンピック組織員会会長であった森氏の問題発言は、森氏の辞任、女性である橋本氏の会長就任、そして大会組織委員会理事会への女性理事を12人増やすことでひとまず一区切りついたようだ。言い換えれば、それですべて終わってしまったかのようだ。そう、日本社会にはびこる女性差別を含めた、あらゆる差別問題に改めて光明を当てる機会を逸してしまったように思える。

 振り返ってみれば、森氏への過剰なバッシング、一億総攻撃状態はあまりにも異常なものだった。批判されてしかるべき。正しければ何を言っても構わない。そこにはそれまでのオリンピック成功に向けてのねぎらいの気持ちはもちろんのこと、83歳の一人の老人への思いやりのこころ、いや、一人の人間への優しさのかけらがまるで見当たらない。

 むろん森氏の発言は時代錯誤も甚だしいし、決して容認できるものではない。とりわけ、自らの立場を深慮することもなく、蔑視、正確には自らの女性に対する偏見を何の考えもなしに思わず露見してしまったことで、彼が辞任に追い込まれてしまったことは当然の帰結かもしれない。しかしながら、彼の発言の内容があまりにも独り歩きし、それにメディアや多くの人が安全な地点から乗っかることにより、その問題を過剰に大きなものにするとともに、問題を一人の人間の問題発言と矮小化することにもなってしまった。まるで全ての女性差別問題の根っこの全責任が彼にあるかのように!だが実際は、森氏以上の差別意識をもっている人間は世にごまんといると推察できるし(「辞任」していない某お笑いタレントは今も活躍中であるが)、むしろ森氏を批判している人の中にこそ、実は男女差別の当事者として意識的・無意識的に加担してきている人が多く含まれていることについて、これを指摘している識者を寡聞にして存じ得ない。そうした差別問題、とりわけ日本社会に根付いた価値観、そしてその背景にある権力構造の問題など、とても語り尽くせない問題がその背景には潜んでいる。こうしてみてみると、森氏一人への過剰なバッシングの量に比して、その後のこうした女性差別を含めたあらゆる差別問題、その背景にある日本文化や権力構造への問題提起・議論など、まるで皆無に等しいと言っていいかもしれない。ただ一人を熱烈に辞任に追い込んで、形だけの解決、騒いで終わり、しゃんしゃん、である。

 そもそも、差別される側にとって一番の問題である”痛み”がその発端であるとするならば、なぜそれをまた同じ"痛み""という形で返すのか。因果応報、目には目をというのだろうか。だとしても、やっていることに代わりはない。いじめられた側が(今回そうでない立場が多いが)今度はいじめる側になるだけのことだ。いずれにせよ、感じ取った差別意識、その暴力性を、別の形でむき出しの暴力性を一人の人間にぶつけていることに変わりはない。そしてそのことに無自覚であることはおろか、今回の女性差別以外の問題で、いかに自らが多くの思い込みや偏見、決めつけや差別をもっているか、これまでしてきたか、あるいは無自覚なままにそうしたことに加担してきたかの可能性についてはまるで想像が及ばないかのようである。あるいは束の間であれ、そうした都合の悪い事実を意識的・無意識的に心の内に締め出さなければ、そうした暴力性にまみれた正義の鉄槌を下せるはずがないのかもしれない。自らが誤りうる可能性、多くの人を傷つけてしまっていることなどに思いをはせていては、正しいことなどできないというわけだ。

 批判することは簡単だ。正しいことを誰でも言える。重要なのは、いかに正しいことを思いやりをもって伝え、行動として示せるかどうかだ。その鍵となるのはやはり平凡ではあるけれども、「当事者性の自覚」、「関係性への配慮」、あるいは「他者の立場の想像」あたりになるのではないか。人は誰しも間違いうる、傷つけうる、いや避けようとしても常に間違い続けるし、傷つけ続ける、そうした自覚。自分にとって大切な人、かけがえのない人に心無い言葉をネットなどでの中傷と同じように平気で投げかけられるかどうか、そんな相手に対する言葉のかけ方、配慮。自分も傷つけられると同時に、相手もまた傷つけられる存在だということへの想像。有り体に言ってみれば、寛容になる、ということにほかならない。対してメディアを通して交わされるコミュニケーションの場では、どうしても一方的、あるいは二次的な伝聞に基づいてのことが多くなり、どうしても当事者性、両方向性に欠けざるをえない。とりわけ、ネット社会に顕著と言える「匿名性」がこれらに輪をかけ、その暴力性をどこまでも増長させてしまう。件の「当事者の自覚」「関係性への配慮」そして「他者の立場の想像」が、これらの現実の問題を打ち破る上で、一縷の望みになるのかもしれない。

 そしてもう一つ光明として見出しうるのは、こうした不寛容な風潮の背後にあるさまざまな鬱憤・怒りをただ暴力性でもって攻撃するのではなく、そのアンチテーゼと言っていい、「ユーモアでもって向き合うこと」ではないだろうか。というよりは、コロナであろうとなんであろうと、あまりにもこうした殺伐とした社会的雰囲気・風潮のもとでは、むしろ何より必要とされる態度・姿勢として、ユーモアがなければ自分自身の心身も蝕むし、他の誰かを必要以上に傷つけ、そして争い合うことは必然とすら思える。余裕がないからユーモアなど持てない?余裕がないからこそ努めてユーモアをもつ、という態度・姿勢をもつしかないのである。たとえ難しいことではあったとしても。

 例えば是非はともかくとして、「女性は話が長い」というような言われように対しては、「男性は話を聞かない」ぐらいにやりこめる方法もあるわけだ。こっちの方がよほど痛快だ。少なくとも、失言を鬼の首を取ったかのように人を責め挙げ、苦しめるよりはよほど健全で穏やかなやり方だ。怒りは社会を変える上で大きな力を持ちうるが、今回はその怒りの感情があまりにもヒートアップしてしまったがために、あるいは一人の人間への怒りの集中砲火に終わってしまったがために、根本解決というよりは形の上での一応の解決、に終わってしまった感が否めない。一人の人間を辞任に追い込むことで溜飲を下げることに成功し、形の上での女性会長就任、女性理事の増加、といった形でガス抜きが不十分になされてしまって根本的な解決に至っていないとしたら?

 対して、もしそこで怒りの感情をユーモアでもって穏当な態度で向き合っていたらどうだったか。ひょっとしたら、様々な立場で大議論になっていたかもしれない。男女の違いから日本社会にはびこる男女差別の問題、権力構造の問題等、そうした穏やかではあっても一つ一つ着実な問題提起、対話・議論の方がよほど、ゆっくりとではあっても大きなうねりとして社会を大きく変える力となりうるのではないか。とりわけ、ネットは本来そういう観点で見てみれば、最も強力な媒体・ツールであるはずなのだ。単に怒りの増殖装置の役割としてのみのメディア、ネットの活用を阻む上で、もっと窮屈でない、少なくともただ怒りを怒りとして一方向の風潮・雰囲気に流れるのを防ぎ、自由闊達な議論を阻む上で、怒りを昇華する装置としてのユーモアの役割はもっと評価されてしかるべきだと思う。と同時に、私達は進んでそうした姿勢・態度をもつことを今後、ますます求められていくことはもはや避けられないといっていいだろう。




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