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「聞く」ちからを神学する(その2)

『聞く技術 聞いてもらう技術』をめぐる神学的探究:第1章

東畑開人さんの『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書、2022年)の読後感を、神学の言葉でつづる第2回です。本書の第1章「なぜ聞けなくなるのか」を取り上げます。

「すでにお話ししましたが、聞いてくださいませんでした。なぜまた聞こうとなさるのですか。」
ヨハネ福音書9章27節

聞くことの不全を、私も感じます。葛藤をときほぐし、対立を解消して平和をつくる働きのカギとなるのが「聞くこと」であり、対話/話し合いによる解決の成否もまた、どれだけ聞き合えるかにかかっている、ということを神学校でも教わりました。ですから、帰国して母教会を訪れ、牧師夫人に開口一番「あの人たち、全然変わってませんから」と言われたとき、それが牧師や長老たちの「聞く耳」の不全であることを、瞬時に悟ったことを覚えています。

加えて、聞くことの不全は現代に特有の現象ではなく、いわば人類の歴史にはつきものだったようにも思われます。上の新約聖書からの引用は、イエス・キリストによって目が見えるようになった生まれつきの盲人が、宗教指導者の尋問を受けているシーンです。指導者たちはイエスの権威を否定していますから、盲人が見えるようになったという「奇跡」を認めると、イエスが神に由来する権威をもつことになってしまって、非常に都合が悪い。そこで、こいつは別人だとか、もともと目が見えていたのが一時的に見えなくなっていただけだとか、なんとか奇跡が起きなかったことにしたいわけです。それで、自分らに好都合な言質をとろうと質問していたときに、元盲人が「なんでちゃんと聞かないの?」と言い返したのでした。

コミュニケーションがうまくいかないとき、その原因を相手の耳に求めるならば、事態は余計にこじれていくだけだ…聞かずに語った言葉は聞かれない。
『聞く技術 聞いてもらう技術』48〜49頁

本書の第1章で、東畑さんは前首相の言葉の届かなさを指摘し、その所以を考察しています。言葉を尽くして説明しているのに、説明責任を果たしていないと批判されれば、つい聞く側に問題があることにしたくなりがちです。しかしそこで考えるべきなのは、自分は「聞かずに説明」していないか、ということなのだと思います。上の宗教指導者たちも、元盲人に説明させる側ではありますが、自分らに不都合な事実ははなから聞く気がないわけで、いわば「聞かずに聞いている」というどうしようもない状況になっているわけです。前首相もまた、官房長官だった頃、聞く耳をもって記者たちの質問に応答していたかどうか、ずいぶん怪しかったと記憶しています。

第1章では、ドナルド・ウィニコットの「ほどよい母親(good enough mother)」という概念が紹介されています。子どものニーズが十分に満たされているとき、子どもにとって親は空気のようにあって当たり前のもの、いわば環境となる。しかし、ニーズが満たされない事態が生じると、子どもは親に働きかけてニーズの充足を要求し、つまり親を対象として捉えるようになる。「環境としての親」と「対象としての親」がほどよくあることが、子どもを健やかに育む上で大切、というお話しです。東畑さんは、ここから視野を広げて、聞くことにも環境と対象の二つの側面があるのではないか、と指摘します。「環境としての聞く」は、いわば聞くことが自然にできている状態、「対象としての聞く」は聞くことが不全をおこした緊急事態、というわけです。

解決できない問題を前に、コンフリクトが生じています。そのときできることは、不信感に耳を傾け、自分が何に失敗したのか、相手がどのような痛みに苦しんでいるのかを聞くことだけです。
『聞く技術 聞いてもらう技術』69頁

この「環境と対象」という捉え方は、聖書における「難しい教え」に向き合うカギとなるかもしれない、と思いました。というのも、私自身が、今年の礼拝奉仕のテーマとして「ゆるし」を取り上げているからです。「我は…罪の赦し…を信ず」(使徒信条)や「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」(主の祈り)など、ゆるしはキリスト教信仰の重要な要素です。それは、私たちの罪を神がゆるしたことを信じるだけではなく、私たち自身もゆるしを行う者となるべきことを教えます。しかし、このゆるしを行うというのがとてつもなく難しい、ということが教会ではどうしても強調されがちです。神は全能で完璧だから罪をゆるせるが、私たちは罪深いから人をゆるすなんてとてもとても、みたいな気がするのでしょうか。とにかく、巨大な難問を前にして行き詰まり、思考が停止し、ため息をついて、答えを先送りにすることが少なくないように見えます。

本書を読んでいて、教会では「対象としてのゆるし」ばかりが語られているような気がしました。小さな傷つきを受け流し、不問に付して手放すということを、誰もが日常的にしているはずだからです。ミスをくり返す自分に嫌気がさしたとき、友人の心ない失言にカチンときたとき、ラッシュアワーに足を踏まれたとき、ささいな傷つきに私たちはそのつど声をあげ、いちいちその責任を追求したりはしません。心に余裕があり上機嫌であって、少々の思い通りにいかないことは気にせずに生きているとき、ゆるしは環境として機能している。私たちの日常には、ほどよくゆるしを実行できているところがあるはずです。当たり前のようにゆるしているからこそ、それは意識化されにくく、自分がゆるしていることに気づきにくいのかもしれません。

もちろん、何もかも空気のようにゆるせるわけではありません。不幸にみまわれ、深く傷つけられ、苦しみと悲しみに襲われるとき、ゆるしは対象として立ち現れることでしょう。被害にあい、傷つきを経験した人もまた、多くのものを失い、欠乏が生じます。健康や収入、信頼や安全など、あって当たり前だったものがとつぜん失われる。その欠乏をゆるしが直ちに埋めてくれるわけではないかもしれない。その意味で、対象としてのゆるしのプロセスにおいても、被害者の痛みを聞くという作業を欠かすことはできない、と私は考えます。聞くことと同様、ゆるしの不全もまた、息長い取り組みが求められていると思います。

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