見出し画像

「聞く」ちからを神学する(その3)

『聞く技術 聞いてもらう技術』をめぐる神学的探究:第2章

東畑開人さんの『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書、2022年)の読後感を、神学の言葉でつづる第3回です。本書の第2章「孤立から孤独へ」を取り上げます。

イエスが、「お前の名は何と言うのか」とお尋ねになると、男は「レギオンです」と答えた。大勢の悪霊が、その男に入り込んでいたからである。
ルカ福音書8章30節

冒頭の社会時評において、東畑さんは孤独が(個人ではなく)社会問題であることを指摘し、これを敷衍する形で孤独と孤立の違いについて説明しています。東畑さんによれば、孤独と孤立の違いは安心の有無にあり、孤独とは安心して独りでいられること、孤立とは独りでいることに不安が伴う状態、と説明しています。

孤独と孤立は違う、孤独は豊かなものとなりうる、ということは私も知っていました。聖書によれば、イエス・キリストは教えを広める活動の最中にあっても、折にふれて「人里離れた所へ出かけ」て祈ることをしばしばしていました(マルコ1:35ほか)。神学校では、豊かな霊性(スピリチュアリティ)を育むために、神との個人的な関係を大切にして、独り静まって神の声に耳を傾けることを重んじることを教わりました。

東畑さんすごい、と思ったのはその後です。孤独だと安心するのはなぜか。それは心の中でも独りでいられるからだ、というのですね。

心は鍵のかかる個室にいて、外からの侵入者におびえなくていい。だから、さみしくもあるのだけど、同時に他人に煩わされずに自分のことを振り返ることができる。
『聞く技術 聞いてもらう技術』88頁

これに対して、孤立している人の心には嫌いな人、怖い人、悪い人が出入りして、自分を責める他者の声にさらされているというのです。だから、安心できない。さらに、孤立がもたらす不安は現実と地続きです。お金がない、仕事がない、頼れる友人がいない、といった現実の不安定さが、自分は無能だ、負け組だ、役立たずだ、いない方がいい、といった声になって心に鳴り響くのです。

これを読んで私が思い起こしたのが、冒頭に引いた悪霊に取りつかれた男の物語です。この男には大勢の悪霊が入り込んでいました。悪霊の実在を信じるか否か、という論点には立ち入りません。私が注目したいのは、この男の心の中にも「悪しき他者」が、それも大勢いたこと、そして彼は確かにゲラサの町で孤立していたことです(27、29節)。加えて、たとえ現代の日常世界で悪霊の実在にリアリティを感じられなかったとしても、「レギオン」の声に日々責められ、孤立している人が私たちの周囲には確かにいるはずだということです。

私が所属するメノナイト教会は、教会共同体のつながりを重んじる伝統をもつ教会です。では、私たちの教会が孤立の問題に適切に対処できていたかといえば、心許ない思いを感じずにいられません。おそらく私たちは、孤立と孤独をきちんと区別してきませんでした。そうして、孤立を解消するカギとなるのが「豊かな孤独」であることに思い至らず、共同体を作るためには個室をなくせばいいと短絡し、鍵も扉もない個室の壁をどうやって透明にできるか、的外れな思弁に陥ってきたと思うのです。そんな的外れの先にあるものを、東畑さんは的確に見抜いています。

組織を「見える化」していくとは、組織で働く人が「見られる化」していくということです。それはすなわち、個室を失うことにほかなりません。…人間は元気なときもあれば、調子が悪いときもあるものです。元気な人しかいられない組織だと、最終的にはスーパーマンしか残れなくなり、人が居なくなります。
『聞く技術 聞いてもらう技術』117〜118頁

私がメノナイトの神学校で学んだこと、それは豊かな孤独を体現できない人たちに共同体はつくれないということです。その意味で、教会共同体は日本的なムラ社会とは異なります。異なるからこそ、ムラ社会に生きにくさを感じていた私にとって、教会が安心できる居場所になりえたこと、この世に同化しなくていい、という声に導かれて、私は信仰をもつに至ったのだということを、あらためて思い起こしました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?