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「聞く」ちからを神学する(その4)

『聞く技術 聞いてもらう技術』をめぐる神学的探究:第3章

東畑開人さんの『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書、2022年)の読後感を、神学の言葉でつづる第4回です。本書の第3章「聞くことのちから、心配のちから」を取り上げます。

シカゴ近郊のロンバードに、ロンバード・メノナイト平和センターがあります。メノナイト教会に併設されており、紛争解決のワークショップやコンサルティングを手がけています。私は1995年の夏、ここで開かれた教会指導者向けの5日間のトレーニングに参加して、メディエーション(対話促進型紛争調停)の基本をみっちりと学びました。翌年の夏には、同センターが主催する研究会に参加し、ルター派から福音派まで、教会でのもめ事解決に取り組んでいる実践者と、教派の垣根をこえて交流する機会を得ました。1973年に『教会の争い』を著したこの分野の先駆者であるスピード・リース氏にサインをいただいたのも、よい思い出です。

留学から帰国して、さて学んだスキルを日本で活かそう、と思った矢先にぶち当たったのが、弁護士法でした。いわゆる「非弁活動」の禁止とよばれるもので、弁護士でない者が法律事件に対して法律事務を行うことを業としてはならない、というものです。法律事務には仲裁、和解、調停やこれらの周旋が含まれており、たとえ無償であっても反復して継続的に行う意思があれば「業とする」ものと見なされます。法律事務を取り扱いますという標示や記載をすることも禁じられています。

法律事件でなければ、弁護士でない者が仲裁や調停をしても大丈夫なのですが、教会におけるもめ事には会堂建築や献金をめぐるトラブルなど、法律が介在する機会は大いにあります。また、教会のメンバーが当事者として解決に関わることは問題ありませんが、扱えるのは「自分のもめ事」に限られることになります。私とて、別に弁護士まがいのことをしたいわけではなく、平和をつくり出す者となるように、という聖書の教えに従い、自分の足元である教会の中から平和づくりの働きを手がけることを志したにすぎません。ともあれ、教会での紛争解決を業とするビジョンは、私の中で急速にしぼんでいったのでした。

あなた方のうち誰かが仲間と争いを起こした場合、聖なる人々に訴えずに、あえて正しくない人々に訴えようとするのですか。…あなた方の中には、兄弟間の問題を裁くことができるような知恵のある者が、一人もいないというほどまでになっているのですか。それで、兄弟が兄弟を訴え、しかも、信仰のない者の前でそうするのですか。そもそも、あなた方が互いに訴え合っているということ自体、すでにあなた方の敗北です。
「コリントの人々への第一の手紙」6章1、5〜7節

本書の第3章では「心のサポーター養成事業」を切り口として、東畑さんが「カウンセリングは誰がやってもいい」けど、素人の「聞く」と専門家の「聞く」には違いがあって、という話をしています。読みながら、私の25年前のささやかな挫折を思い出していました(というか、あれって挫折だったんだ、と今気づきました)。その後、ADR(裁判外紛争解決)促進法ができ、メディエーションを普及する活動にも従事しましたけど、スキルを磨くより資格を認定してカネを取ることばかりに血道をあげるのに鼻白んで辞めたりもしました。

日本でできないのなら日本の外でやればいい、という思いもあって、2011年からNARPI(東北アジア地域平和構築講座)というプログラムを仲間と始めました。毎年8月に半月間の合宿トレーニングを開いて、平和づくりを学びます。戦争をなくすだけでなく、暴力をなくし、傷つきをケアし、関係性を修復して、日常生活から戦争責任まで、世界に平和を積み上げていくための知識とスキルを探求しています。平和を職業にするプロを養成するというより、クラインマンのヘルス・ケア・システム(175頁)で言われる「民間セクター」の底上げをするつもりで、学生や一般市民を主な対象としています。

紛争解決とカウンセリングはイコールではありません。けれども、個人の苦悩が内心の問題にとどまらず関係的な広がりをもつことは珍しくありませんし、対人関係の争いも当事者の言い分をじっくりと聞くことで自ずと解決していくことがあります。教会に求められるのは、ただ個人の心の悩みだけに対処することにはとどまらないし、かといって法律・経済・テクノロジーの専門知識を教会に完備しなければならないわけではないのだと思います。

エイリアンとして過ごす日々は、着実に人を損なっていきますが、人間的に見守られる時間は、少しずつ心を修復してくれます。
『聞く技術 聞いてもらう技術』201〜202頁

平和づくりの基本も、敵をいかに人間としてみるか、エイリアンや悪魔にしか見えない相手をいかに人間化(ヒューマナイズ)するか、にかかっていると言われます。安全な場所で物語りあうこと、聞くこと・聞かれることを積み上げていくこと、そんな営みが教会にも求められていると感じます。

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